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第九話 雨はすべてを流すか①

   仕事を早退するのはこれで三回目だった。  私はいつも通りに淡々と仕事をしていた。  そのうち窓口を訪れる住民の様子で、外が雨降りであるのに気付き「今ごろタクマは洗濯物を取り込んでいるだろうか」と呑気なことを考えていた。 「オズ!」  そんな静かさを破ったのは、行儀良く並んでいた住民を押し除けて現れた、ずぶ濡れのディーナだった。 住民たちは一瞬迷惑そうな表情を浮かべたが、ディーナのたくましい体躯と強面を目にするとすごすごと引き下がる。  羨ましいような、気の毒なような。順番は守れ、と私が叱ると、ディーナは髪から雫を滴らせながら、酷く慌てた様子で口を開いた。 「今すぐ抜けられないか?」 「見て分からないか。仕事中だぞ」 「しかし、タ、タクマが」 「タクマ?」  ——なぜお前がその名前を知っている。  ぞわりと身体中の感覚が逆立つ。威嚇の意味も込めてディーナを睨むと、身体に比べ気が小さい熊の獣人は、泣きそうな顔で弁明した。 「……悪かった。お前と一緒に暮らしているのがどういう奴が気になって、さっき家を訪ねたんだ」 「タクマに会ったのか」 「会った。それで少し話をした。それで……なぜかは分からないが、いきなり床に倒れて」 「倒れた?」  それ以上は居ても立ってもいられなかった。ディーナに出口で待つように伝えてから窓口を離れようとすると、一連の様子を見ていた上司が慌てて声をかけてくる。 「え、え、まさか、キミ、また……」 「頭が痛いので早退します」 「ちょっと!オズくん!」  「あんまりだぞ」と喚く声と、ズル休みの言い訳能力に長けた後輩が「先輩最近飛ばしてますね」と笑う声を背中で聞きながら、私はその場を立ち去った。  ディーナと合流すると、自慢の黒耳はしんなりと下を向いていて、明らかに気落ちしていた。 「オズ、本当に悪かった。勝手に家を訪ねたりして。取り越し苦労だったのに……」 「そのことは良い」  ディーナに悪気がなかったのは分かっていた。心配症なこの男に半端な説明しかしなかった私にも責任がある。けれどこの男がタクマに勝手に会って話をしたという事実が、どうしようもなく私を苛立たせていた。  わざとらしく腕を組んで、ディーナを見据える。 「それで?タクマを一人置いて出てきたのか?」 「ち、違うんだ……」 「違う?」 「倒れた後、タクマはいきなり外へ出て行ってしまって」 「……外へ?なぜだ?」 「分からない。一瞬しか見てないが、熱がある感じでとても具合が悪そうだったのに」  熱。その言葉を聞いて、私はひとつの可能性に思い当たった。  記憶の片隅にこびり付いた、あの日の出来事。あの日から大体ふた月が経っている。正常な判断なんてできないほどの猛烈な渇きと飢えを、私とタクマはお互いの身体を貪り合うことで満たした。  むせ返るほどの甘い香りと、身体中を巡る熱。 「……ディーナ。そのとき、お前には何もなかったか?」 「俺か?俺は何も……」 「そうか」  私の考えが合っているとすれば、タクマはまたあの強い香りを纏っていたはずだ。たとえ一瞬でもあの香りを嗅げば、誰だって正気ではいられない。  しかしそれはディーナに作用しなかった。  あの香りは、私だけを惹きつけるのか。  はっと空を見上げれば、先ほどより雨足が強くなっていることに気付く。  胸のなかに空と同じ色の不安が広がる。タクマは外へ出て行った、とディーナは言った。外、というのはつまり。  私の顔色から察したのだろう、ディーナが力なく呟いた。 「……タクマは、森へ入って行ったんだ」 ◆◆◆◆◆  私は慣れ親しんだ森の中へ足を踏み入れた。  傘など持っていても意味がないと判断し、濡れるのも構わず奥へ進んでいく。  虎の姿で闊歩する習慣を付けていて良かった。おかげでこんなときでも迷わずにいられる。普段は話し声のような木々のざわめきも、今日ばかりはじっと息を潜め雨音に聞き耳を立てているようだった。  ディーナは酷く心配していたが帰らせた。  おそらく正気を失っているであろうタクマの姿を見せたくなかったからだ。そしてそれに当てられた私が、どういう行動に出るのかも。 あの男にはおそらく、刺激が強すぎる。倒れる者が増えると私だって困る。 「タクマ」  雨のなか、そっと名前を呼ぶが届くはずもない。  恐ろしいほどの熱に見舞われ、タクマは咄嗟にディーナから離れたのだろう。もしかしたら、ディーナが香りでおかしくなってしまうかもしれない、と考えて。  胸がしくしくと痛んだ。  今ごろタクマはひとりで耐えているのだ、と思えば喉の奥からこみ上げてくるものがあった。  早く、早く見つけてやらなければ。  タクマ、ディーナは大丈夫だ。タクマの香りが分かるのは、私だけだ。そう言って安心させてやりたかった。  拓けた場所へたどり着き、私は目を閉じて集中してタクマの香りを探った。  雨がそれを邪魔したが、それでも私にはタクマを探し出せるという妙な自信があった。    私なら分かる。  私にしか分からない。  ふわり、と甘さを感じて目を開く。  あちらにいる、と本能が告げていた。  香りに導かれるようにぬかるんだ地面を踏み分けていく。  想像していたよりもずっと深いところ。  そこに見慣れた身体が倒れていた。

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