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第九話 雨はすべてを流すか②

「タクマ」 「っは、ぅ、」  駆け寄って泥だらけの身体を抱き上げると、タクマは身悶えて声を上げた。ぶわっと強烈な香りが脳を揺さぶったが、私は奥歯を噛み締めて耐える。  雨のおかげで香りが以前よりも薄いことが不幸中の幸いだ。もし直に嗅いでいたら、私もこんなに冷静ではいられない。きっとすぐにタクマの身体をかき抱いて、欲望をぶつけていただろう。 「あ、ぁ……」 「タクマ。タクマ、分かるか?」  タクマは焦点の合わない目を泳がせて、力なく声を漏らし続けた。  長時間雨で冷やされてたはずなのに、タクマの身体は火照り、顔は妖しく紅潮している。  あのときと同じだ。タクマは欲情している。狂いそうなほどの身体の熱を持て余し、それをひとりで抱えきれずに苦しんでいる。  何かを求めるように空を彷徨うタクマの手を掴み、私の頬に押し当てる。大丈夫だ、と強く念じながら。 「タクマ、私だ。ここにいる」 「ふ、あ、お、オズ……?」 「そうだ。すまない、遅くなった」  タクマの目は僅かに普段の色を取り戻したが、その瞳には涙の膜が張っていた。  そうしている間にも冷たい雨がしとどにタクマの身体を濡らしていく。  早く家に連れて行かなければ。  長時間雨に打たれていたのだから、身体の芯は冷えてしまっているはずだ。  ぐったりと重い身体に肩を貸して立とうとすると、タクマは小さく唸って私の胸倉を掴んだ。縋るような仕草に驚いて私は思わず声をかけた。 「タクマ?」 「……ここで、いい」 「何がだ?」 「ここで、いいから、しよ」  浮かされたように呟きながら、タクマは私の身体に手を這わせる。驚いてタクマの顔を見れば、そこには艶かしい笑みが貼り付いていてぞくりとした。  同時に身体のなかに渦巻き始めた熱情に気付く。雨にかき消されようとしていたタクマの香りが匂い立ち、屈してしまえと絡みついてきた。 「オズ、」  はやく、とタクマが甘えた声で急かす。心臓が不自然に鼓動を速めていた。私だって分かっている。お互いに芽生えたこの欲望は、身体を重ねることでしか消えないのだと。 「してよ、ねぇ」  一向に応えない私に、タクマの顔が焦れてくしゃりと歪む。どうして欲しいものをくれないのか、と私を責めているのだ。頭の内側が殴りつけられているようにがんがんと痛んだ。  タクマのうなじに無意識に指を這わせてしまう。ああ、ここに噛み付いて、しつこく残る傷を舐めあげたい。  ——これを悲しませてはいけない。  ——そんなことは許されない。  頭の中どこかで声がした。  タクマは苦しんでいるのだから、楽にしてやって何が悪いのだ、と。  けれど。 「……タクマ、もう少し我慢してくれ」 「なんで?オズ……やだよ、して」 「…………」  今は、だめだ。  まずはタクマの身体を暖めてやらなければ。  ぎりぎりの理性を総動員して、私は半ば無理やりタクマを立たせる。  ほとんど抱えるようにして歩き出すと、タクマは「ひどい」と泣き出したが、なんとか宥めすかして帰路を急いだ。身体が密着しているだけに、何度も目の前がぐらぐらと揺れたが、なんとか私は耐え切った。やっと森を抜けて家を目にした瞬間、安堵でその場に崩れ落ちそうになったくらいだ。  ——初めてタクマを連れ帰った日を思い出す。  あのときは、虎の姿でタクマを引きずって帰った。  もちろん四つ足でいる方が力も強くなるし、脚も速い。  そうした方が早く家に着けることは明白だった。  しかし私は、そのときと同じようにタクマを引きずる気には、どうしてもなれなかった。

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