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早咲きの一花(1)

 探偵をしていた。  大学の間にアルバイトで浮気調査の張り込みの手伝いやなんやかんや。  他人の秘密を知るのが楽しくて、そのまま就職してしまった。  毎日の浮気調査や素行調査。人の裏側を見る毎日。  容姿が良かったから、別れさせ屋をやらされたり、浮気調査の依頼相手のご婦人に惚れられたり、粘着されたりして。  楽しさはどんどん薄れて行って、調査はただの作業になり……  気がつけば立派な人間不信になっていた。  見た目は中身を裏切る醜い世界をうんざりするほど見すぎて、自分の中の価値観は浜辺の砂の白のように全部崩れてしまった。  元々はバイセクシャルだったのだが、探偵の仕事をしている間に運悪く酷い女を何人か見て、女相手には勃たなくなった。けれど、性欲を処理するのは男でも構わなかったから、適当にその系の店に行き男を拾ってはその場限りのセックスを繰り返していた。  そのうち、眠れなくなって。  まあこんな仕事をしていたらしょうがないさ。  そう思っていたら、突然これといった理由もないのに猛烈に死にたくなって、自分が完璧にすり切れてしまったのだと気がついた。  間に合うかもしれないと生活を変えることにして、探偵を辞めて引越しをした。  定時で帰れる仕事について、自分を少しずつ建て直して。  焼け付くような死への衝動は消えて、探偵時代の思い出は遠のいて。  だけど、うまく笑えない自分が残った。  視線を敏感に感じるのは探偵だった頃の職業病だ。  ある日、カーテンを開けたままシャワーを浴びてビールを煽っていたら、視線を感じた。外からの視線だとわかったから、照明を落としてテレビを見ているふりをしながら窓の外をすかし見た。  向かいの部屋のカーテンが揺れた。  それもやはり探偵の頃の職業病なのだが、俺には周りを観察をする癖があった。だから、周辺の家にどんな人物が住んでいるかは大体把握していた。手を伸ばせば届きそうな向かいのアパートには中年の冴えない男が住んでいたはずだ。  そんなおっさんが俺を見ているとはどういうことだろう。  もしかして、見張られているのだろうか。  その日から慎重に向かいの部屋の男を観察することにした。  三日も経つと、これは……どうも違うのではないかと思い始めた。  二週間が経過した頃には、確信した。  向かいに住む中年の男。  佐藤学というその男。  アパートのポストに今時フルネームが出ている辺り、全く警戒心がないらしい。  平凡な顔立ちの男で、背丈も普通。  年は三十台後半から四十代前半といったところだろうか。  とにかく目立たないこの平凡な男を逆に見張り始めて、最初の三日で彼が見張りをしているのではないと判断した。そういったことをしているのだとしたら、彼は間抜けすぎる。  カーテンが揺れているのを見た。こちらもカーテンを閉めようとすると、びくんとカーテンが震える始末だ。カーテンを閉めた後、そのままそこに立っていると、大きなため息が聞こえた。  次の日は部屋の照明をつけずに部屋の中に潜んでいた。  寝支度が済んだのか、部屋の電気が消える。  カーテンが少しだけ開いて、佐藤学が顔を出す。  パジャマをきちんと来た姿がのぞいて、カーテンが閉まる。  そしてまた次の日、明かりがついてカーテンの開いたままの彼の部屋を見て、照明をつけると外に出た。たばこに火をつけて吹かしていると、部屋の中でビールを飲んでいる男と目が合って、あわててカーテンを閉めに来た。  会釈をすると、一瞬まじまじと俺の顔を見て、会釈を返した。  目を逸らして、カーテンを閉める頬が赤くなる。  なるほど、そういうことか。……これは違うな。  そう思ったが、観察することは止めなかった。  何故ならオレは佐藤学に興味を持っていたから。  佐藤学は、自分が観察されていることに気づきもしない。  それは彼が他人に見張られる理由がないということだ。  そんな彼が俺を見る理由をはっきりと知りたくなっていた。  籠の中の小さな動物を観察するように、俺は佐藤学を観察する。  そして、反対に佐藤学に俺を観察させた。  いくつかの行動パターンをつかむ。  まず、彼は俺を見たがっている。  わざとカーテンを閉めずに部屋をうろうろしていると、彼の部屋の照明は消えて視線を感じる。俺が留守にしていると、彼の部屋のカーテンは寝る時まで閉まらない。俺の帰りを待っているのだろう。そして、自分が寝るまでに俺が帰らないと、窓辺でため息をつく。  俺の留守の間、彼がカーテンを閉めないのは幸いな事だった。  照明をつけずに部屋に静かに滑り込み、暗い部屋の中で息を殺して佐藤学の部屋を観察した。  筋トレが彼の日課らしく腹筋や腕立てをしている。  年の割には引き締まったいい体をしているのはそのせいか。  トレーニングを終えた彼が姿見に自分を映している。  そういうナルシストなのかと思って見ていると、何か慌てているようだ。  うっすらと割れた腹筋と、しっかりとした肩をしきりに撫でている。  やがて学は諦めたように溜息をつくと、照明を消して、もそもそと布団に潜り込んだ。

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