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早咲きの一花(3)
何をしているのかと自分を蹴りたくなる。
眠れない夜を過ごして、いつの間にか探偵の頃のように窓際に座り込んでいた。
そして、カーテンの隙間から、向かいの部屋を見張っている。
もちろん俺はカーテンを揺らしたりはしないけれど。
辺りが明るくなって、佐藤学の部屋のカーテンが開く。
部屋の中に彼以外の人影を探すが、見当たらない。
見張っている間、人の動く気配はなかったから、まだ寝ているのか。
やがてちらりとスーツを着た佐藤学の姿が見えた。
外で待つほうが確実だろう。
見てどうするつもりなのか……止めておけと言う声が聞こえるが、身体が勝手に動いていた。
鍵を指にひっかけてゆっくりと階段を下りていく。
見上げると、佐藤学も部屋を出るところだった。
スーツ姿で鍵をかけている。隣には誰もいない。
何故ひとりなんだ?
別に調査をしているわけではないから、見られても構わない。
偶然を装って階段の下をゆっくりと歩く。
そして、手に持っていた鍵をわざと落とした。
「あ、落ちましたよ?」
期待通りの声が聞こえて心の中で満足する。
「すいません」
振り向いて佐藤学を見る。
俺だと気づいていなかったのだろう。俺の顔を見て表情が固まった。平凡な、これといって特徴のない顔に鮮やかに色が差していく。
これはどういう事だろう。
思いながら手を差し出すと、震える指が鍵を手に乗せる。
「ありがとうございます」
佐藤学の赤らんだ顔をじっと見る。
真っ赤な顔の中の瞳が、後ろめたそうに逸らされる。耳まで赤いのに気がついて、唇に微笑みが浮かんだ。
俺はまた笑っている。
微笑んだ俺に、佐藤学の視線が戻った。一瞬だが隠しようもない欲望がその目に浮かぶ。
おどおどと頭を下げると、佐藤学はぎくしゃくと遠ざかって行く。
多分、走って逃げ出したいのを堪えているに違いない。
足早に部屋に戻ると、佐藤学の部屋をカーテンの隙間から覗いた。
誰もいる気配はない。
会社に行く準備をしながら、考えをゆっくりと巡らせた。
佐藤学の家には誰もいなかった。
後ろめたそうなあの顔。
もう一度見た時の目の色。
昨日、俺は何をしていただろう。
端的に言えば、体を晒して佐藤学を誘惑していた。
結果、彼は俺の顔を見て後ろめたい顔をした。
次に、恋する乙女のような目で俺を見た。
佐藤学の家には誰もいない。
さて、誰もいない部屋で彼は何をしたんだろう。
「まあ……おかずにしたんだろうな」
口の端に笑いがこみあげる。
最初はくすくすと、それから声をあげて笑う。
額に手を当てて腹の底から笑った。
そりゃ後ろめたいだろう。顔だって赤らむさ。
さぞかしノリノリだったに違いない。
一人なのにあれだけあんあん喘いでいたのだとすれば。
薄暗い、どろりとした気持ちは綺麗に消えていた。
その意味には蓋をして、出掛けのタバコを吸い込む。
タバコをもみ消すと、軽やかな足取りでアパートを飛び出した。
それからも俺は学を観察し続けた。
見たり見せたり。
だが徐々に見ている方が増えていた。
見たいと思う気持ちが募って行った。
いい加減やめなければならないと判っていたが、やめることが出来ない。
暗い部屋の中でタバコも吸わず、隣の部屋を見ている。
水槽の中の熱帯魚を眺めるように、籠の中の小さな動物を眺めるように、温室の中の綺麗な花を眺めるように。
同じ時間に帰って来て、同じように日課をこなす学を眺める。
うまそうな晩飯を作り、筋トレをして、つまらなそうにテレビを眺め、俺の帰りを待ち、溜息をつく。
それを黙って見つめる俺は、多分だらしない顔をしているのだろう。
でも、構わなかった。
そうしている間は過去の痛みが俺を苦しめることはなかったから。
俺と学とのほんの少しの距離。
歩けば十何歩か。
それだけしか離れていないのに、俺は彼に触れることは出来ない。
俺と学はそれぞれお互いの領域にいて、そこから出る事はなくて。
例えばベランダ越しに目が合っても、学は俺に声を掛けないだろう。
俺も学に声を掛けることはないだろう。
思われていると知っている。そして……思っている。欲しがっている。
学の平凡な姿の下に隠れた純粋な甘いものが欲しい。
そこに甘いものがあるのは判っている。
きっと夢中になるだろう、手放せなくなるだろう。
暗い部屋の片隅、背中を丸めて膝を抱えた。
決して見つからない物影から、俺を求めて溜息をつく学を見ていた。
ぎゅっと手を握って口に当てると、出そうになる声を抑えた。
カーテンが閉まって、部屋の電気が消える。
俺はもう世の中をまっすぐに見る事は出来ない。
学と俺の見る景色は恐らく全然違う。
学にとって単純な世界は俺にはとてつもなく複雑だ。
そんな俺が彼に手を伸ばすことは許されるだろうか。
許されなかったとして、耐えることは出来るのか。
もし、学の部屋に誰かが来て、学があの声を上げ始めたら、俺はどうするのだろう。諦めるのか、奪うのか。
答えは出なかった。
立ち上がってタバコに火をつける。
思い切り吸い上げて、額に手を当てると煙を吐き出した。
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