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第7話

――……などと漠然と考えていたのに。 今朝のあれはいったい何だったのだろう。邦孝は満員電車の中で、いまだ混乱しきっていた。 麻琴は……アイツは今の仕事を辞めてカナダに移住したいと言った。そして、ついてこいと言ってきた。……言われた内容は理解できたが、あまりにも突拍子もなく、眉をひそめる他ない。理由もてんで分からない。 しかし、アイツのことだから平然とした顔で有言実行しかねない。それがアイツの長所であり、怖いところでもある。名の知れた大企業に勤め、激務ではあるもののそれに見合った収入があり、何でもできる彼のことだからエリート街道を最短ルートで駆け抜けているだろうに、それを捨て、自分を連れてカナダに飛ぼうとしている。……理解不能、意味不明だった。 とりあえず、今夜だ。今夜、麻琴から真相を聞くまでは、この件は頭の片隅に置いておこう。そう思い、邦孝は勤務先の最寄りである渋谷駅で、人を押しのけながら電車を降りたのだった。 「今朝からずっとうわの空ね」 会社近くのファストフード店で昼食をとった後、その近くのコーヒーショップでアイスコーヒーをテイクアウトで買い、オフィスへ戻ると、そう声をかけられた。同じ課の同僚である野田 千夏は、自分のデスクでお手製弁当を食べ終えたところで、弁当箱を保温バッグにしまいながら、邦孝をにやにやと見ていた。 「考え事? 悩み? あ、妄想だ?」 「いや、3つ目はおかしいでしょ」 邦孝は笑いながら、千夏のとなり――自分のデスクに座って、アイスコーヒーのストローを咥えた。彼女は4歳上の事務社員で、毎朝、旦那と自分の弁当を作り、幼稚園の年長になるひとり息子を送迎バスまで見送ってから出勤している。時短勤務ではあるが、家事や育児と仕事の両立に相当苦労していた時期があり、せめて仕事の負担を減らしてあげようと、邦孝は進んで彼女の業務を手伝っていた。 その恩を感じてくれているのか、千夏は邦孝がミスをすると真っ先にフォローしてくれる上、社歴や年齢が上のため、相談によく乗ってくれる。頼りになる姐さんだ。 「わたしはしょっちゅう妄想するよー」 千夏は保温バッグを有名ブランドの鞄にしまいながら、明るく笑った。今朝は息子がぐずることなく幼稚園のバスにすんなりと乗ってくれたそうで、その分元気なようだった。 「ほら、月9に出てるイケメン俳優分かる?」 「あぁ、穂高 尚文でしたっけ?」 「そうそう、あの子とのランデブーとかを想像して、すっごく楽しくなる」 「それなら、浮気にカウントされないって?」 「ええ。旦那にも報告済み」 邦孝は笑い声をあげた。 「で、わたしに話せることがあれば聞くけど?」 ……千夏の言葉に甘えることにした。電車の中で、一旦は頭の整理がついたと思っていたのに、気づけば職場でも今朝のことを考え、ぼんやり、もやもやとしていた。打ち明ければ、彼女は興味深そうに目をしばたきながら、「ふむふむ」と聞いてくれた。 「へぇ……シンクタンクのエリート社員の彼が」 「はい」とうなずき、邦孝はアイスコーヒーを飲んだ。「……昔から、いきなりびっくりするような言動してくる奴なんですけど、今朝のは流石にびびり過ぎて」 「でも、三ツ井くんも彼も英語できるんでしょ? それにふたりして適応能力高そうだし、欧米圏の生活にもすぐに馴染めそう。彼の提案に乗るのもありだと思うよ?」 「千夏さん、簡単に言ってくれますね」 苦笑する邦孝に、千夏はリップのとれた唇を左右に広げながら、ふいに身体を近づけてくる。

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