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第8話

「だってさ、三ツ井くん。この会社で働いてて、楽しくないでしょ?」 昼休みとは言え、オフィスにはちらほらと人がいた。彼らに聞かれないように小声で、千夏はそう訊いてきたのだ。 これには思わず、唸るような声を小さく漏らし、曖昧な笑みを浮かべる他なかった。……確かに、それはそうだ。過労とうつ病で前職を辞め、半年ほどの自宅療養や復職訓練などで費やした自分を採用してくれ、何の偏見も区別もなく周囲と同じ扱いで働かせてくれている今の職場には、感謝してもしきれない。それに千夏を始め、同僚は親切な人たちが多く、とても恵まれている。 しかし、仕事内容は恐ろしく単調で、ほとんどの時間をデスクに座り、パソコンと向き合って過ごしている。 あまりにも変わり映えのしない生活に、我が儘だと分かっていても飽きを感じている。病気を克服し、かつての外交的な性格を少しずつ取り戻している邦孝にとって、一日中オフィスにいるより、外に出て人と交流し、仕事の交渉をしている方が、性に合っていた。 前職の不動産営業も、仕事には順応し、成績も残していた。ただ、法外な労働時間と上司からのパワハラの数々に耐えきれなかったのだ。 「……けどまぁ、それは妥協できる範囲ですし、何かと融通を利かせてもらえるし、こんなに良い職場はないと思ってるので」 「まぁね。わたしもそう思う。給料もそれなりに貰えるし、福利厚生が充実してるし、三ツ井くんもほとんど定時から30分以内で帰れてるもんね?」 「はい」 「それに、プライベートの悩み事まで相談できちゃう同僚もいるわけだし?」 そう言って得意げに笑う千夏に、「そうですね」と軽い口調で同意した。けれども、それは冗談ではなく本当だ。彼女には、ずっと世話になっている。育休明けで何かと忙殺されながらも、中途入社したばかりの邦孝の面倒を見てくれ、仕事の相談にも乗ってくれ、そして日本社会ではまだまだ受け容れられていない麻琴との関係について理解を示し、気にかけてくれていた。 「それにしても彼氏さん、何で急にそんなこと言ってきたんだろうね?」 千夏は小首を傾げる。「心当たりある?」 「うーん……」 邦孝も首をひねりながらコーヒーを口にする。 「なら今夜、ちゃんと訊いてみないとね……って、うわ……」 千夏の言葉を遮るように、机上のピッチが鳴った。「ちょっとー、こっちはお昼休みなのにー」と彼女は唇を尖らせながら電話を取ると、どうやら海外支社からのようだ。「三ツ井くん、ごめん、パス」と英語が話せない彼女から慌ててピッチを受け取り、邦孝は受け答えした。 相手は香港支社の物流システム課のエンジニアで、「今朝、ウチに入庫された製品のデータがシステム上にあがってこない」とのことだった。「すぐに確認して、修正する」と言って電話を切り、スリープ状態のパソコンを起動させる。「うそ、緊急事態?」と訊いてくる千夏に事情を説明すれば、彼女もげんなりとした表情を浮かべながらも、自分のパソコンに向かった。 休憩時間が終わる15分前だった。「ほんと有り得ないんだけどー」とぶつくさ言いながらも、システム上のエラーを慣れた様子で修正している千夏に、「話、聞いてくれてありがとうございます」と礼を言う。彼女は、ちらりとこちらに含み笑いを向け、「週明け、また話聞かせてね」と返してきた。……月曜日は、カフェで昼飯を奢ろう。そう思いながら、邦孝もキーボードを叩き始めた。 それにしても最近、自社の物流システムは何かとトラブルを起こしている。エラーが発生しない完璧なシステムなど、この世に存在しないのは分かっているが、人間以上に問題を多発している気がして、これ如何に。 ……この件に結びつけるのも何だが、それこそ麻琴はそうだ、まるでサイボーグのような奴でもあった。

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