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第10話

「やけど俺、仕事。仕事に行かな」 慌てふためき、起き上がろうとした自分を麻琴が静かに、けれども力強く制止した。救急医は呆れた表情で自分を見つめていた。 「行かんでいい。仕事は辞めろ」 「せやけど、そんなん無理……今月の契約件数が未達で……」 「邦孝」 麻琴が珍しく声を荒げ、邦孝は怯んだ。 「仕事よりも身体の方が大事やろ。死にたいんか?」 語気を強めに、突き刺すように諭され、言葉に窮した。と同時に、全身がすうっと脱力した。 憑き物が落ちた、と言っていいのかも知れない。麻琴の言う事は正しい。身体が先か心が先かは分からないが、このままだと自分は本当に、そうなってしまうだろう。 それに気づかされ、自分を雁字搦めにしていたあらゆるものが解けていく。邦孝はおとなしくベッドに沈み、「人事に電話するわ」とだけ言えば、麻琴はふっと息を吐き出し、難しい顔をしながらこめかみを手で押さえて、ゆらりと項垂れた。 彼のそんな姿を目にするのは、その時が初めてだったかも知れない。自分だけでなく、彼も相当参っていたのだろう。ただただ、申し訳なかった。 退院日に心療内科医からうつ病と診断された際、邦孝はそれを否定することも疑問に思うこともなく、淡々と受け容れた。精神が消耗しているのに気づいていても、気づかないふりをしていた。限界はとうの前に越えていたというのに、自身の心を蔑ろにして地獄のような環境に居続けた。その代償が、これだ。いっそ憐れで、嗤えた。 その後、邦孝はたっぷりと残っていた有給休暇をすべて使って会社を辞め、心療内科へ通院し始めた。 「まずは規則正しい生活を取り戻しましょう」と言われ、朝は6時半に起床し、三食を決めた時間にきちんと食し、夜は睡眠導入剤や向精神薬を服用して11時までには就眠するように努めた。 最初の頃はそんな生活に違和感ばかりを覚え、適応できずにいたが、徐々に身体が馴染んできて、壊れてそのままにされていた体内時計が、正常な時間を刻むようになっていった。毎日、同じ頃に空腹を感じ、食事が喉を通るようになった。睡眠については早々の改善は困難で、薬を飲んでもなかなか眠りにつけないことが多かったが、やがて少しずつ眠れるようになり、慢性的な疲労感に苛まれていた身体や頭が軽くなっていった。 日中は自分のやりたいことや好きなことをするよう、勧められた。けれども、鬱々として気力が湧かない時は、無理をせずとことんだらけて過ごしてもいいとのことだった。 とりあえずは、家の近くのレンタルDVDショップで観たい映画の円盤を借り、鑑賞することから始めた。好きな音楽をぼうっと聞くだけで1日が終わることもあった。漫画や小説は集中力が低下していたので、短編集を少しずつ読むようにした。 そんな時間を楽しいと感じるのにも日数はかかったが、仕事に明け暮れ、真っ先に切り捨てたそれらを取り戻したのは大きかった。狭まっていた視野が広がっていくのを感じた。 ゆっくりと昔の自分に戻っていくようだった。鈍かった頭の動きは、油を差した自転車のチェーンのようにくるくる、するすると回りだし、手際の良さが戻ってきた。家事の時間は短縮され、買い物や通院を億劫だと感じなくなり、色んなことを同時にこなせるようになっていった。

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