2 / 86
第2話 行く春
「で、結局何がどうなった?」
「どうもこうもあるものか、お前に話をするんじゃなかった」
藤倉は人の話を酒の肴に楽しそうに笑う。
「いやいや、気になって当然だろう。お前が俺にほかの男の話をするなんて」
藤倉との付き合いは長い。かれこれ十年になる。十年一昔、二度と会いたくないと思った相手もいつの間にか飲み友達になっていた。
「他の男の話って……」
「そうだろ、気になっているのなら行動を起こせよ」
「馬鹿なことを言うなよ、会社の後輩に何の行動を起こすんだか」
「その桜なんとかの話をするときは可愛い顔をしているのに」
「可愛いって、直に四十の声を聞こうとしている男に付く形容詞じゃない」
「お前は可愛いよ」
揶揄いがちに話す藤倉の目は真剣そのものだ。藤倉は誰よりもわかっている。自分が独りで生きて行けるほど強くない事も。そして、もう二度度藤倉の手を取ることも無いということも。
お互い傷つき過ぎた。出会うべき相手ではなくても出会ってしまったのだから仕方ない。
今では一番の理解者となってくれたが、それなりの時間が必要だった。
「明日も稽古あるんだろ、早く待っている人のところへ帰れよ」
自分で発した言葉に自分で傷つく。それを見透かしたように藤倉は優しく頬に触れてながら答えた。
「お前の命令には逆らえないな、そろそろ帰るか」
立ち上がった藤倉が差し出した手に一瞬首を傾げた。
「ほら、家まで送るよ」
藤倉にぐいと腕を掴まれ、バランスを崩し前のめりになりながら立ち上がった。
「危ないよ」
よろけて藤倉の胸にもたれ掛かるような格好になってしまった。アルコールと煙草の香に混じって藤倉の付けたムスクの香りが鼻腔をくすぐる。
「んっ、急に引っ張るから」
藤倉を睨むように見上げた。
「お前、相変わらずそそるな」
「……何を……」
その言葉は聞こえなかったように藤倉は視線を逸らした。そして、一万円札をテーブルに乗せると「ごちそうさま」とカウンターに声をかける。見て見ぬ振りをしてくれるマスターに軽く会釈をしてこちらの手を引いて藤倉はドアへと向かう。
ここでは自分も藤倉も単なる客の一人で、そして飲み友達で誰にも咎められる事は無い。
藤倉の事は大切にしていた。少なくとも藤倉の為なら何を犠牲にしても良いと思うほど愛していた。
けれど、日陰の身でも良いと泣いて縋る自分の姿を夢に見た時、あまりの情けなさに涙かこぼれた。
そして翌日、自分から別れを切り出した。どこへも進めずに苦しんでいる藤倉を解放するために。
ほっとした表情とも泣き出しそうな表情ともどちらにも取れそうな笑顔で藤倉はその申し入れを受けた。
あの日から十年、一度も肌を重ねた事は無い。それでもふとした瞬間にぞわぞわとした感覚が下腹から上がってくる。
店から一歩外へと出ると藤倉は姿勢を正した。目の前にいるのは優しく頬をなぞる藤倉ではなく、伝統芸能の継承者としての藤倉だった。
「自分で帰れるよ、今日は楽しかった」
そう藤倉に告げると通りの流しのタクシーを軽く手を上げて止めた。
あまりにも違う。違いすぎる。藤倉と桜井は似ても似つかない。なのに忘れていたあの感情がまた自分の中に灯って消せない。
「何を馬鹿な事を……」
タクシーに行き先を告げるとゆっくりと目を閉じた。
ともだちにシェアしよう!