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第3話 花曇り
「課長、何かお探しですか?」
いきなり声をかけられ、桜井の問いに驚く。デスク周りを軽く見回していただけなのだ、際して目立つような探し方はしていない。
「いや、倉庫の鍵が……」
「それでしたらデスクの右側、一番上の引き出しです」
「え?」
言われて引き出しを引くと、中のトレーに鍵が乗っていた。
「考え事をされる時、無意識にデスクの上のものを片付けてらっしゃることがありますよね」
桜井のその言葉にまた驚く。誰も知らない癖をなぜ桜井は気がついたのだろうか。いつも見ているのだろうか?
……いや、違う。
桜井はよく気がつく、そしてよく覚えている。それは誰に対してもそうなのだ。特別な事ではないと自分に言い聞かせる。
あいつは誰に対してもそうなのだ。
……そう、誰に対しても。
変な勘違いはしてはいけない。
「鍵、総務に返しておきます」
差し出された手に鍵を乗せたときに桜井の手に指先が触れた。その触れた指先がちりっとする。反射的に慌てて手を引いた。
「そうか、ありがとう」
礼を言う自分の声が浮ついているように感じて思わず下を向いてしまった。
……人の心を動かすのは大きな事より些細な事の積み重ねだ。
平坦だと思って止まっていた道が、なだらかに下り坂で、少しずつ近づいてはいけない所へと転がり出してしまっている。
一度転がりだすと加速する。そして気が付いた時には元いた場所へ戻ることはできなくなっているのだ。
あと少し、あと少しの辛抱だ。桜井は移動になる。一年程度と言われている。桜の季節はまた廻ってきた、時計はカウントダウンを始めている。
これ以上、心にさざ波が立たないように静かに日々を紡げばいいだけなのだ。
「課長、お客様がお見えです」
声をかけられて慌てた。会社で何を考えているのかと恥ずかしくなる。チェアーを回転させながら、立ち上がった瞬間にキャビネットに足をしたたかぶつけた。一瞬その痛さに顔をしかめてしまったが、何事も無かったように立ち上がる。
スチールをどんと蹴ったような音に課の社員がびっくりしたような顔をした。
「大きな音をたててすまない。キャビネットを蹴飛ばしてしまったよ。桜井が戻ったら、第一会議室へ来るように伝えて」
伝言を残すと何事もなかったような顔をして会議室の扉を押し開けた。
「関さん、今日は何のご用件でしょうか?」
関は取引先のメーカーの部長だ。その部長が、約束もなく訪ねてくることは珍しい。
「たまたまここの法務に用があってね、その帰りに寄ってみたのだが、忙しかったら失礼するよ」
「いえ、製品に不具合でも起きたのかと、安心しました」
「ところで、最近連れている若いのは今日はいないのかな」
「桜井ですね。席に戻り次第、こちらへ参ります」
「そうか、彼は気持ちの良い青年だな。うちの専務がお気に入りでね、紹介したいそうなんだが」
専務?一度会議室で挨拶しただけだ。特に何も関わりはないはず。
「紹介ですか……」
「そう、専務の娘さんなんだが」
ああ、そういう事かと納得した。突然の約束のない訪問の意図を。
「桜井ですか……そう…ですか。あの時、ご挨拶させて頂いただけだと思っておりましたが」
桜井は挨拶しただけで人を惹きつけるのか。確かあの時は取引先工場の管理部門からも若い社員を何人か連れて行ったはずだ。その中で何が他と違ったというのだろう。
「一人だけ、立ち上がった時に椅子をきちんとしまって背を正してから挨拶をしたと」
そう、桜井のそういうところが小さな引っ掛かりを作る。育ちがいい。それだけじゃない、行動のひとつひとつに心配りがあるのだ。
「そうでしたか、それは……」
それは?それは何だと言えば良いのだろう。ありがとうございますというのも変だ。そして、そんな余計な話は正直聞きたくも無かった。
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