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第5話 惜春

 「羽山、桜井はどうだ?」  部長に背後から「どうだ?」と、突然声をかけられて立ち止まった。一瞬考えて答えを出す。  「とても仕事の覚えが早くて、こちらが戸惑うほどです」  「そうか、戦力としてあれくらいの奴が欲しいところだが。まあ、仕方ないか……」  「え?」  仕方ない……。  つまりそう言う事なのだ。  一年ほど預かって欲しいと言われたその期限が来たという事。既に暦は一巡してしまっている。そして、この時が来るのを自分も待っていたはずだった。  不安定にこぼれ始めた感情に引き摺られて、今の生活を失くす事など出来ないのだから。  「内示はもう出てるんだが、本人は何か言っていなかったか?」  「いえ、何も聞いてはおりませんが」  「そうか、来週には辞令が下りるから、割り振る仕事考えておけ」  「はい、承知しました」  内示はもう出ている……。  何も桜井からは聞いていないと、情けなくなった。確かに一時的に預かっただけだ。だがこの一年間、上司と部下として上手く仕事をしてきたはずだった。何かあったら真っ先に話してくれるとそう思っていた。そのくらい距離は近いと、それは全て勘違いだったのか。  「駄目だな……」  デスクの上に重ねてあった書類の束をめくりながら、無意識に声に出してしまっていた。自分自身に向けたその言葉に桜井が反応した。  「課長、何か問題ございましたか」  「……え…、あ、いや問題はないよ」  一瞬何に桜井が反応したのかわからず戸惑って答えが遅れた。いつもと違うその様子を桜井が見逃すはずはなかった。  「課長、どうかなさいましたか?体調がすぐれないのではありませんか?」  「なんでもない、自分の仕事に集中しろ」  こんな些細な事も気にかけて心配する様子を見せるのは、単なる表面だけのことかとますます腹が立ってきた。移動の内示が出たのに何も言ってはこない。  「はい……あの課長、やはりいつもとは様子が少し違うような…差し出がましいようですが、もしよろしければもう少し私に手伝わせてください」  手伝わせて?もうすぐ移動するのに何をいっているんだと腹がたって仕方なかった。  「……どうせすぐにいなくなるお前に任せる仕事なんてない!」  感情的にならないようにと思っていたのに、随分と子供じみた言葉が出た。  「……」  少し驚いて傷ついた顔をした桜井を見ながら、自分がパワハラまがいの言葉を投げつけたことに気が付いた。  「いや、すまない。違う……」  違うと言いながらデスクに両肘をついて、両手で頭を抱え込んだ。まるでひどい片頭痛に襲われた時のような吐き気が上がってきた。  体調が悪いというより、このまま頭痛を起こしそうだった。自分の気持ちがこんなにも揺さぶられていることに頭が痛くなっているのだ。  「……誰から内示の事を…そうですよね、部長から…ですね」  黙って桜井の顔を見た。部長から聞いたのは事実だが、それが何だと言うのだ。間接的に知って傷ついたとのですかと問いたいのか?  一体自分は何を考えているのか、馬鹿げている。桜井の恋人ではないんだと自分に言い聞かせる。  桜井は頭をがしがしと掻くと下を向いて小さく息を吐いた。  「すみません…実感がわかなくて…その…いえ、申し訳ありません」  何を謝られているのか、わからず答えることができなかった。  「いつ、移動になるんだ?」  そう聞くのが精一杯だった。  「ゴールデンウィーク明けすぐです」  「そうか」  桜井もそれ以上何も話さなかった。ただいつものように目の前の仕事をこなしていった。  書類の束を重ねなおしながら、ふと考えた。今年は気が付いたら桜は散っていたな、次の桜の季節を迎える時にはこの息苦しさもきっと消えてなくなっているはずだと。  今の感情は、勘違い、単なる気の迷い……それだけだ。桜の香りに煽られて勘違いしてしまったのだ。春は人を狂わせる。見てはいけない夢も見る。それだけのことだと窓の外の緑の葉をつけた桜の木を見ながら考えた。

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