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第6話 立夏

 五月三日から七日までの五日間が連休となった。自分のように独り身では五日間の休みをもらっても別段普段の生活と変わることはない。  ふらりと歌舞伎や能を観に出かけることはあるが、藤倉との付き合いの中で少し解るようになった程度だ。面白いとは思うが、趣味と言えるほどのものでもない。  もともと几帳面な性格で普段から部屋は片付いている。会社から電車と徒歩で三十分という好条件の物件は、申し訳程度のキッチンと寝室兼リビングになっている部屋があるだけだ。狭い部屋を掃除するのにかかる時間は本当に短い。  物に執着しない性格なので、持ち物も少ない。片づけなければいけないほど散らかることはない。  つまり、取り立ててやらなければいけない事も、やりたい事もないのだ。  スーツとワイシャツはクリーニングへ、ほかの衣類と部屋着はまとめてコインランドリーへ。その作業も終わってしまった。  実家に帰るという選択肢もあるのだろうが、帰ったところでと思う。別に家族を嫌っているのではない。  ただ、どういう顔をして会えばいいのか、長く帰らないうちに分からなくなってしまったのだ。そうこうしているうちに、帰ること自体が面倒になってしまった。  「さて、何をするかな……」  誰に問うわけでもない質問を口にすると、窓の外をぼんやりと眺めた。すこぶる良い天気だ。こんな気持ちのいい日に何もする事がないのもなと考えてしまう。  ……そのうちに思考は、余計な事を頭の隅から引きずり出してきた。長い休みに入る前の日のことを。  「短い間でしたがお世話になりました」  頭を下げる桜井を見ながら、どこか絵空事のように感じていた自分がいた。  口々に寂しいだの、また遊びに来てだの声をかける課のメンバーの中で、自分だけが早くこの時が過ぎればいいのにと時計の秒針を目で追っていた。  いつもよりスローモーションで動く時計の針。まるで文字盤の数字に引っかかって進めず苦しんでいるように見える。  「課長、何か一言」  そう促されて、確か何かを言ったはずだ。自分の口が機械のようにぱくぱと動くのはわかった。そしてみんな微笑んでいた。多分、うまくやれたのだろう。一体何を言ったのかさえ定かではないのだが。  その翌日から連休に入った。連休が明けて出社すれば桜井のいたデスクはまた書類の一時置き場へと変わっているだろう。桜井がいた形跡はすぐに消える。ようやく解放される。  解放される?今の今まで自分の思考が桜井でいっぱいだったことに驚愕した。忘れようと強く願えば願うほど、桜井の姿が脳裏をちらつく。  頭の中から余計な影を振り落とそうと、強く左右に頭を振った。何歳になってもうまく立ち回れない。恋愛に関しては特にそうだと嫌になる。  気晴らしに散歩にでも行こうと立ち上がった時に扉をノックする音がした。  インターフォンはついている。ドアがノックされることは、ここに越してきて一度もなかった。  かわいた木材を叩いくその音は、玄関口に軽くこだました。  「はい?」  突然の来客を確認するためにドアへ向かった。少しだけ開けておいた窓から風がすっと流れ込んできた。  暦は立夏、爽やかな風が渡る。そしてもうすぐ夏がやって来ると柔らかなその風が告げていた。

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