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第8話 薫風
コーヒーメーカーをセットしながら自分の置かれた状況を考えた。そして会社の元部下が世話になった上司に挨拶に来ただけだと結論づけた。
自分を納得させる理由は見つかったものの、振り返ると部屋の中心に桜井がいるというこの状況はあまり心臓に良いものではなかった。
「いい香りですね、コーヒーお好きですよね」
「好きって言うか、甘いもの飲めないし……」
休日ということもありボタンダウンにカーキのスウェットトレーナーという楽な格好をしている。白シャツにデニムの桜井もいつもとは違って距離が近い。
友達と過ごす時のような格好のせいなのか、ついくだけた言葉遣いになってしまっていた。
いつもと違うその物言いに気がついた桜井は、小さくくすりと笑うと、コーヒーを受けとった。
「かわいいですね……」
「え……」
「あ、このマグカッブがです」
慌てたように桜井が付け加えた。自分がたった今手渡したマグカップを二度見してしまった。可愛い……か、それ?
「ファイヤーキングのマグだ、気に入ってる」
「アンティークですよね」
「違う、ビンテージだよ」
「そのこだわり何ですか?」
桜井は声を立てて笑うと、マグを光にかざすように持ち上げた。その仕草にドキリとし、慌てて桜井から目をそらした。
「アンティークと言うほどは、古くないから」
自分の手にあるターコイズブルーの重量感のあるカップを両手で強く握った。手に馴染んだ感覚が心地いい。
肌に馴染んだものは安心する、人であれ物であれ。
自分は今小さい世界で生きている。身の回りにあるもの全てが変わらない安定を与えてくれる。
だから新しいものを受け入れる事には臆病になってしまう。
若い時は新しい物を手に入れる事が喜びだった。
今は馴染んだものを離さず、変化のない生活が安心する。
変化は望んでいないんだと、自分に言い聞かせる。
桜井は……桜井は怖いと思う。得体の知れない感情を引き起こして大きな変化を起こしそうだからだ。
「それ、飲んだら帰れ」
「そうですよね、課長にもご予定がおありですよね」
「……まあ」
「明日、食事に行きませんか?明日の昼でも夜でもお時間取れませんか?」
「いや……明日は」
「では、明後日。今までお世話になった課長にお礼がしたいのです」
どうやっても桜井は引くつもりは無いらしいと理解し少し考えた。
明るい日差しの中で見る桜井は眩しくて、自分の表情の些細な変化まで晒してしまいそうで怖い。
「明日の夜なら……」
「ありがとうございます。では明日の夜七時にお迎えに上がります」
それだけ言うと桜井はこちらの返答を待たず「お邪魔しました」と、帰っていった。
桜井がドアを開けた時、五月の風か部屋の中へと馴染みのない香りを運んできた。桜井のつけている整髪料の微かな香りなのか。ざわっと身体が震えて両腕で自分を抱え込んだ。
断れば良かったのだとその後ろ姿が視界から消えた時に気がついた。
既に変化は起こり始めているのだろうか。
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