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第9話 青嵐

 桜井は部屋の空気を全く違うものに変えてしまい、一人異空間に残してふっと消えてしまった。  なぜか壁にかけてあるカレンダーの絵が歪んで見える。  いつもとは濃度の違う空気に、ほのかに残る馴染みのない香りに呼吸が苦しくなる。自分の部屋だというのに見知らぬ場所にいるようだ。  「出かけるか……」  特にどこかへ行くあてもなかったが、今この部屋には何故か居場所が無い。落ち着かない。  その時、ベッドの上に置いてあった携帯が震えた。小さいノイズのような音は布団に吸い込まれて殆ど聞こえなかった。  携帯を慌てて手に取ると画面をスライドして耳にあてた。  「はい」  スピーカーから馴染んだ声がした。大きく息を吸いこむとゆっくり呼吸した。大丈夫、まだ自分には居場所が有ると言っているようだった。  「……そんな展開になっているとは」  藤倉にいつものようにからかわれると考えていたのに藤倉の意外な反応に驚いた。  近くまで来たからコーヒーでも飲もうと呼び出され、自分の気持を落ち着かせるために藤倉に事の顛末を語ったところだった。  明らかに面白くないという顔をしている。   あれだけ行動をおこせとけしかけていたくせにとおかしくなる。自分が、ふっと笑って気がついた。藤倉は笑っていない、笑っていないどころか不機嫌な表情なのだ。  「明日……行くのか?」  「行くしかないだろ」  「……うーん、どうするかな」  「藤倉が悩むことじゃないだろう」  「そうか?」  藤倉はこちらの目をのぞき込む様にして話しかけてくる。  藤倉の切れ長で、目尻の少し上がった顔は人を惹きつけて離さないらしい。他人はよくそう言う。 しかし、正直なところ藤倉の目は怖い。じっと見つめられると、蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなる。  心まで丸裸にされたような気がして居た堪れない。  「とにかく、誰に会うとしてもいちいちお前の許可を取るのは変だろう」  「一稀、それ本気で言っている?」  藤倉に久々に一稀と名前で呼ばれて、鳩尾の奥がむずむずとした。  「……え……」  「いつき、もう関係ない?」  藤倉はわざとゆっくり繰り返し名前で呼ぶ。意識的に名前を呼ばれ呼吸のテンポが乱れだした。  「か、んけい…ない」  「そう?解った、そう言うのなら」  藤倉はテーブルの上の伝票を掴むとがたっと大きな音を立てて立ち上がった。隣のテーブルに座っていたカップルがその音に驚いて視線を逸らして囁いた。  その拍子に慌てて立ち上がってしまった。まるで、その場に独り置いていかれそうになった子供のように。  その様子に藤倉は満足の笑みを浮かべた。  「ね…必要だろう?違う?」  これは刷り込みだと思った。藤倉は絶対で全てだった。けれどもそれは大昔の話。    風化した恋愛の残骸のはずだった。

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