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第11話 春に降る雨
「お前、何してんの」
声をかけられて体をぴくりとさせた。いつの間にか眠ってしまったようだ。
コンビニで昼食を済ませ……それから何をしていたのだろうと半分寝ぼけた頭で考えた。
連休で生活のリズムが狂ってしまっているのか何曜日の何時なのかはっきりとしない。
自分は何かを忘れているのだろうか、やらなきゃいけない事があったのではないかと、思い出さななければいけないと、ぼんやりと考えた。
大切な事を忘れているような気がした。霞がかった意識の中で思考が横滑りする。
(えっと……何かやらなきゃいけない事が……)
「上がるよ」
また誰かの声が聞こえ、部屋の空気が流れを変えた。その瞬間に現実の世界へと引き戻された。
「インターフォン鳴らしても返事ないし、鍵は開けっ放しだし」
ああ、そうだったと思った。
「藤倉……」
目の前に立っているがたいの良い男は元恋人で、今は親友のはずの藤倉だ。何故ここにいるのかは藤倉のみぞ知ることだが。
……別れてから一度も藤倉がこの部屋を訪れたことは無い。
「約束したろ、明日って」
藤倉はあきれたような顔をした。その表情は、まるで当然のことをこちらが理解していないと言っているようだった。
「約束の時間は、七時だよな」
「そうだけれど……」
壁の時計を見る。五時少し前の部屋はまだ明るい。
「コーヒー淹れるけど、飲むだろ」
ああ、そうだコーヒーを淹れるのはいつも藤倉の仕事だったと、狭い台所に似つかわしくない姿を眺めながら考えた。
電気ポットのスイッチが入る。ガスでしっかりと沸騰させた水がいいのにといつも文句を言われていたなと思いながら抱え込んだ膝に頭を乗せたままの姿勢で、動かずにいた。
藤倉はコーヒーメーカーは使わず、普段は使っていない棚を開ける。そしてコーヒー豆、ペーパーフィルタと次々と必要なものが並べていく。
「本当にお前、昔から変わらないよな。どこに何があるのか一目瞭然」
楽しそうに笑う藤倉を見ながら、十年という時間をかけて築き上げた互いの立ち位置がぐらぐらと揺れ始めるのを感じていた。
ポットがごとごとと音を立てて、お湯が沸いてきたことを知らせてくれる。時計の針はそのリズムを崩すことなく時間の流れを告げている。
この部屋は自分にとっては馴染んだ安心な場所のなずだった。しかし、誰かの存在がそこにあることによって別の場所に変わるのだと知った。
そういえば昨日の朝……ここに座っていたのは桜井で、コーヒーを淹れていたのは自分だったと考えながら、陽気に話し続ける藤倉の話をまるで他人事のように聞いていた。
藤倉らから手渡されたのはいつものファイヤーキングのマグ。
その手触りをしっかりと感じながら、大丈夫と自分自身に言い聞かせていた。
ぽつりと何か藤倉が言った。掛け時計の秒針の音に重なってその言葉は静寂に飲み込まれてしまった。その声は自分の耳にはとどかかなった。
「一稀、だから…今日行くのか?」
何も答えないことにいらだつように藤倉が重ねて問いかけてきた。
「どうして?関係ないよね、誰と何をしたって……」
藤倉には関係のない話。自分がどこの誰と食事をしようと、どこの誰と一夜を明かそうと恋人でもない藤倉に引き留める権利も不満を漏らす権利もないはずだった。
部屋に静けさと重い空気とが降ってきた。
「もう、俺のことは好きじゃない?」
その質問の意図がつかめない。お互いに友達であること以上を望んだことも、ましてやの望まれたこともない。少なくとも昨日まではそうだったはずだ。
「どうしたの?らしくないよ」
「らしくないのは、お前なんだよ一稀」
藤倉は昨日から意図的に名前で呼んでいる。今までと何が違うのだろう。不思議な気持ちになりながら目の前の男の顔をもう一度眺めた。
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