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第12話 甘雨

   「藤倉、そろそろ帰れよ」  「帰らない」  何度も繰り返されるこの問答に根負けしそうになった時、携帯が鳴った。  液晶に浮かび上がる名前に藤倉が不快な表情をした。画面と藤倉の表情を交互に見て、小さくため息をつくと携帯を手に取った。  手に取った瞬間にその携帯は藤倉に取り上げられた。  「あ、何?」  「なあ、お前はさ、俺のことは……どう思っているわけ?」  鳴り続けていた携帯が静かになった。約束の時間まであと後少し、何か急ぎの用事だったのかもしれないと携帯を目で追った。  「何、ものほしそうな顔してんだよ」  「ものほしそうって何だよ……昨日から気になってたけれど、お前は俺の友達だと思っていたのは間違いなわけ?」  「お前のお友達とやらの範囲はどこまでだ?」  「は?意味が解らないけれど、俺が馬鹿なだけなのか?」  「俺は一度たりとて……お前を他の誰かと同じカテゴリーに入れたことはない」  「……」  「一稀は、俺にとっては特別なんだよ」  じゃあ今までの十年間は何だったのかと問いたくなった。一人になって苦しくて、足掻いて心を掻き毟って……。  ようやく新しい恋愛を探すのもいいかもしれないと思った時に、相手を紹介してくれたのも…相手は……。  ……え?…何かおかしいと思った。  「ちょっと待って……まさか」  「まさか?」  「今まで俺が付き合ってきた人は……」  全て合点がいく。付き合い始めると、いつもなぜか相手が自分のことを知りすぎているような気がしてた。そして話した覚えのないことまで藤倉が知っていたことがあった。酔っぱらった自分が話したと藤倉は言っていたが、他から情報が流れていたのならと得心した。  独りで生きてきたはずのこの十年は一瞬にして打ち消された。  「そういうこと……なのか?」  だから桜井は駄目なのだ。藤倉は自分が逃げることを、その掌から零れ落ちることは許さないと言うことなのだ。    じりりとそばに寄ってきた藤倉が両の肩を掴んだ。  「は・な・せ!」  「嫌だ」  掴まれた腕の強さに、そして目の前にいる男の瞳の奥の見え隠れする得体の知れない感情に怯えた。    藤倉を押しのけようと、その腕をつかんだ時にバランスを崩して、押し倒されてしまった。  体がテーブルにぶつかった拍子にその上のマグが飛ばされた。マグカップはスチール製のゴミ箱にぶつかり大きな音を立てた。  「いった」  「お前がっ……」  藤倉がのしかかり何かを言おうとしたときに、その体はぐんと後ろへと引き上げられた。  「課長、大丈夫ですか?」  「さ・くらい!?」  「誰だお前っ?」  桜井に脇の下から腕を差し込まれて体を固定された状態ではいくらいきがっても、藤倉は情けない格好にしか見えない。  桜井は藤倉のその怒鳴り声のような質問を聞こえないかのように無視すると、もう一度こちらに声をかけてきた。  「すみません、どうすればいいでしょうか。大きな音が聞こえて慌てて入ってきたのですが大丈夫ですか?」  「桜井、悪い。そいつ放してやってくれ」  「はい、わかりました」  自由になった藤倉は、まるで牙を抜かれた虎のようになった。床に座り込むと下を向いて何も言わなかった。  桜井はまるで何事もなかったかのように向き直ると藤倉がそこにいないかのように話しかけてきた。  「すみません、早く着きすぎてしまいました」  その二人の様子を交互に見て、あまりにこの状況が滑稽で、「くっ」と小さく笑いが出る。  「桜井、お前かなり変わっているな」  「そうでしょうか?そろそろ出かけませんか?」  桜井は藤倉の方に向き直ると真面目な顔をして財布から名刺を取り出した。  「申し訳ございませんが、今日は課長と食事の約束がございまして。あ、私桜井と申します。よろしければ、そろそろお引き取り願えないでしょうか。もし、何かございましたらこちらへご連絡ください」  藤倉は押し付けられた名刺を黙って受け取ると、一瞥して黙って出て行った。  食事に出かけるだけ、ただそれだけだと自分に今一度言い聞かせた。桜井の存在がこれ以上大きくなるのは困るのだ。それでも鬱々として固まってしまいそうだった気持ちに滴り落ちてきた甘露がしみ込んだ。

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