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第13話 爽風
まるで何事もなかったかのように桜井は接してくれている。多少のばつの悪さと安堵感とのはざまで落ち着かなかった。
「勝手に店を決めてしまったのですが」
「ん?ああ、何でも大丈夫」
「ひとつ聞いでもいいですか……」
「え?」
桜井の聞きたいこと……さっきのあの男は誰なのかという事か。
修羅場を見られてしまったような気もしているが、あれだけでは単なる友達同士の喧嘩にしか見えないはず。
大丈夫、切り抜けられると自分に言い聞かせた。会話までは聞かれていない。そう解っていても心臓は跳ね上がる。
「課長は……肉と魚はどちらがお好きですか?」
「は?」
桜井は真剣な顔をして聞いてくる。何を聞かれるのかと身構えて、緊張していたのにその想定外の質問に自分自身があまりにも滑稽に思えて笑いだしてしまった。
「お前…ほんと…いや、どちらも好きだよ」
「良かったです、今日の場所決めるの悩みました」
「で?結局どうしたんだ」
「悩んだ結果、居酒屋です」
「……それだったら確認の必要はないだろう?」
笑うと、それにつられたように桜井が微笑む。
「いえ、大切ですよ。魚のおいしい店ですから。課長に食べていただきたいものもありますし」
嬉しそう笑う桜井の顔を見ながら、自分の体温が少し上昇しているのに気が付いた。
桜井のその笑顔に心はぐらりと揺すられた。そして、その振動で心の奥底にあった枯れたはずの泉から水がまた湧き出してしまった。
揺らされて水脈が変わり、もう忘れられていた泉からこぽこぽと溢れた想いが心の中に浸みだしてきた。乾ききった自分の心にその泉の水が浸み渡る速度は速かった。
桜井のその笑みはこの瞬間、自分だけに向けられている。その事を自覚した途端に気が付いてはいけないものに気が付いてしまった。
そう、自分の気持ちが既に後もどり出来ないところに来ているということを。
「……なんだよ、それ」
あくまでも落ち着いた表情を桜井に向けながら、しっかりと自分自身に言い聞かせる。「これで最後。もう次はない。会ってはけない」と、何度も救いの呪文のように心の中で繰り返した。
我ながら上手くやれていると思った。居酒屋では他愛もない話をして、上手に時をやり過ごしていた。このまま時間の流れに任せ、最期に元気でやれよと送り出せば終わる。最期まで上司として桜井に接することが大切なのだ。
「この煮つけ、旨いな」
「シャコですね」
「すし屋で食った時はもっと身が薄いイメージあったけどな」
「地元だと、もう少し大きいのが手に入るんですが」
「地元?お前は出身東京だろ?」
「いえ、福岡ですよ。博多です」
こうやって共に過ごすと、知りたくもない余計な情報が入ってくる。困るのだ。これ以上距離が近くなるのは。それだけは避けなければいけない。
「課長は……」
何かを言いかけて、桜井が少し困ったような顔をした。
「ん?」
「あ…課長と言うのは今の部署の事で、なんだか変ですよね。移動になったのにまだ課長とお呼びするのは、ややこしいですよね」
「ああ、そう言えば調査部だったな」
知っている、見て見ぬふりした桜井の辞令だ。少し斜めになった日付の文字まで鮮明にしっかりと頭に焼き付いる。
「はい、今泉課長の元で勉強させていただいています。課長が…うーん…あの、これから羽山さんとお呼びしてもいいですか」
「……」
名前で呼ばれて一瞬、呼吸が止まる。近づきたくない相手は一足飛びにその距離を詰めてくる。「駄目だ」と返事をしなくてはいけない……いけないのに息が喉に詰まったように声にならない。何も言えなくて、下を向いてしまった。
「羽山さんとお呼びしても差し支えないでしょうか」
重ねて聞かれ、駄目だと止める自分の意志とは反対にこくりと小さく頷いてしまった。
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