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第14話 小満
ざわざわするものを胸の中に抱えたまま日を過ごしていた。落ち着かない理由は誰よりよくわかっている。認めたくは無いのだが知っている。
なぜなら原因は、ひとつしかないのだから。
あの日から二週間、来るとは限らない連絡をどこかで期待し待っている。そんな自分自身が嫌なのだ。
社会的には十分に認められ、一端の大人のはずなのにと苦々しく思う。
「どこがどう、大人なんだか……」
小さく呟くと、デスクの引き出しを手前に引いた。そこに置かれている携帯の液晶に何らかの通知が来ていないのかつい確認してしまう。
お礼と称された食事の後、桜井が帰り際に告げたあの言葉。それがこの重いような苦しいような感覚の原因だ。
『本当に楽しかったです。また、是非ご一緒させてください。今度、金曜日の夜にでもお時間取れませんか?』
そう桜井に言われた。桜井は嘘はつかない、少なくとも自分に一度も嘘を吐いたことはない。桜井の楽しかったからまた是非一緒にという言葉に嘘はないはず。ただ、その日がいつなのかは定かではないだけだ。
あの時、桜井の言葉に「そうだな」と答えた。ゴールデンウィーク明けの一週間は、桜井から連絡が来るかもしれないと、どこかで緊張していた。
金曜日の就業時間になった時、結局来なかった連絡に落胆した。まるでクリスマスの朝、何も受け取れなかった子どものようだと情けなくなった。
早く帰りたくない、そんな日に限って仕事が綺麗に片付く。残業するわけにもいかず、デスクのパソコンの電源を落とすと、行く予定ではなかった店へ自然と足が向いてしまった。
いつもの店の扉に手をかけて一瞬躊躇った。今日も藤倉はこの店でいつものように、あの席にいるのだろう。必ず自分がまた来ると確信しながら。
今日は帰ろう、帰るべきだと踵を返した時、目の前にハイヤーが止まった。
「今日は早いね」
「……藤倉」
先週の出来事はまるでなかったかのように車から降りて微笑む見慣れた顔がそこにあった。その馴染んだ顔と声に、瞬時に時の流れが穏やかに、緩やかになった。ささくれ立っていた心も平静を取り戻した。
見えない壁に囲まれているのに、自分は自由だと勘違いしたままここで生きていくのか?それが心地いいのか?自分は結局この立ち位置を捨てられないのかと思った。
「ん?入らないのか?」
「今日は…帰るよ」
「ふーん、まあいいか。来週待っているよ」
来週、もしも桜井から連絡が無かったら、きっとあの扉を開けてしまう。そうなる事を藤倉もまた自分も知っている。
藤倉は目の前をすっと通り過ぎその店の扉を押し開けた。その時、ふっと香った残り香に自分が得体の知れない何か絡め取られそうになったような気がした。逃げ出すように足早に自宅へと向かった。
五月も三週目に入った。いなくなればその存在は霞んでいくと信じていたのに、あの桜井の最後の言葉は誤算だった。携帯を見る度につい考えてしまうのだ。来るはずもない誘いの連絡を。
だらだらと日が過ぎまた二度目の金曜日を迎えた。そしてやはり桜井からの連絡は無かった。期待することにも待つことにも疲れてしまった。
『来週、待っているよ』藤倉の言葉が頭の中で再生される。パソコンの電源を落とし、荷物を鞄に放り込むと「仕方ないんだ」と自分に言い聞かせた。
「課長、三番内線です」
「はい、羽山です」
声をかけられ何も考えずに電話をとった、そして聞こえてきた声に受話器を落としそうになった。
「桜井です。すみません、終業時間過ぎていますよね」
「さ・くらい?」
「あの、すみません。仕事思っていたより忙しくて……今日もこれから会議です」
「ああ」
だから何だと言うのだ。桜井は忙しいから連絡できなかったと言い訳してもらうような関係ではないというのに。
「金曜日じゃなきゃだめですか?」
金曜日と言ったのは自分ではなく桜井なのに、何を聞いてくるのかと驚いた。
「あの・・・羽山さん?明後日の日曜日空けといていただけませんか。何かもうご予定がおありでしょうか?」
「いや」
「良かった、じゃあ日曜日の朝電話します」
電話の向こうで桜井を呼ぶ声が聞こえた。「すぐに行きます」と、その声に答えると桜井は「必ず電話します」そう伝えて電話を切った。
受話器を本体に戻すと、へなへなと自分のデスクに座り込んでしまった。一瞬、周りの風景が真っ白になって消えた。
……こんな感覚は知らない。息苦しくて、頭がおかしくなりそうだった。
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