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第17話 入梅
「そうなのですか?意外ですね」
「そうか?らしいと思っていたのだけれどね」
「意外ですよ、羽山さんが歌舞伎ですか?」
あの日曜日の夜以来、週に一度、二度と時間が合えば桜井と食事をするようになった。特に何かの決め事があるわけではない。どうしても仕事のバランスは桜井の方に傾いている。だから自然と桜井の都合に合わせて、自分が時間を空けることが多かった。
他愛もない話をして、ただ食事をともにするだけ。それだけの関係なのになぜか心地よかった。食事をして少しだけ酒を酌み交わす、それだけの関係。
新しい部署に異動になってから早ひと月が過ぎ、桜井は仕事の流れをつかんできたのか六月になってからは連絡をよこす頻度が上がっていた。
この夜はいつもより早い時間から出かけ、珍しく二軒目に立ち寄っていた。普段より少し疲れた様子の桜井に早く帰るように促したが、桜井はせっかく早く上がれたのですからと、帰りたがらなかった。
話しながら桜井は時折、下を向いて口元を覆っていた。寝不足なのか、欠伸を噛み殺すのも可愛いとその様子を見ていた。
「桜井、今日はなんだか眠たそうだな。さっきから何度も欠伸をのみこんでいないか?」
「すみません。昨日、少し問題があって夜中まで……」
そう話しながら、桜井はまた小さく欠伸をした。
「桜井、また今度にしよう。今日は帰れ」
「やっと会えたのにもうですか?」
残念そうな顔をする。そんな桜井を見ながら、自分が何かのサインをその表情や態度に探していることに気が付いて焦った。自分の桜井への想いは別として、桜井からは何か与えてもらうことはないと理解していたはずなのに。
桜井はなぜ、わずかな時間を見つけては連絡をよこすのだろうか。楽しい…それだけで、元上司と毎週出かけるものだろうか。単なる暇つぶしだとすれば、無理をしてまで時間を作ろうとしてる今の桜井尾状況が解せない。
「帰れ、また時間が空いたら連絡くれればいい」
「羽山さんは…羽山さんからは連絡をくれないのですか?」
何気ない一言だった。だが、桜井が連絡が欲しいと思ってくると知り、もうこれ以上単なる上司でいる自信がなくなる。
かといって、会社の後輩それも十も年下の相手だ。何が出来ると言うのだろうか。
「今日は…行かなきゃいけないところがあるから……」
もごもごと行くあてもないのに、出まかせに言い訳をした。その歯切れの悪いものの言い方に桜井が反応した。
「誰に会いに行くのですか?」
誰に……?行くところがあると言っただけだ。決して誰かに会いに行くとは言っていない。
驚いて桜井の目を見ながら、自分の動揺が相手に伝わらないようにと願った。
「いや、…そう…コーヒーを買って帰らなきゃいけないんだ」
あまりにも見え透いた嘘に情けなくなり悲しくなる。下を向いてしまった途端に桜井が声をかけた。
「すみません、羽山さん。今日は帰ります」
まるで傷ついたような顔をする。自分が悪いことをしたような気分になり、戸惑った。店を出ると既に雨が降り出していた。昼間の熱にさらされたアスファルトに雨が落ち、夜の匂いが濃くなっていった。
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