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第18話 雨霧
桜井と別れ、一人自宅へと向かいながら桜井の言葉を反芻した。「誰と会うのですか」どういう意味なのか計りかねる。それでも独りになれて、気持ちが落ち着いた。なぜだろう、あの落ち着かない空気の原因はと考える。
「……認めてしまえば?」と、声が聞こえてきたような気がした。何を認めろというのか。
……そしてその夜以来、桜井からの連絡がぷつりと途絶えた。
もともと桜井からの連絡に応える形だった。桜井から連絡が来ないのであれば、もうその先はないのだろう。
一週間が過ぎ、何かが始まるかもしれないと期待したあの日は何だったのだろうと、苦々しく思った。これでようやく、忘れられる。きっと楽になれるはず。
そう、やるべきことを淡々とこなして、残りの人生を消化していく。これ以上もこれ以下もない。安定と言う名の呪縛。
「課長、お客様がお見えです」そう声をかけられて現実の世界に引き戻された。
「ああ、ありがとう。今行く、奥の会議室へご案内して」
余計な事を考えている時間はない。仕事をしていれば、自分が必要とされているのが解る。存在の意義があるのだ。会議室では関部長が待っていた。
「桜井君、転属したんだって?」
狸だな、とうに知っているだろうにこの期に及んで何が聞きたいのだか。
「ええ、先月の初めから調査部へ移動しました。部長のところには連絡差し上げたと思っていたのですが」
「そうだったかな。で、どうなんだろう?」
「どう?ですか?……部署も違いますし、全く今どうしているのか解りませんが」
「いや、あの話だよ。専務の……」
「部下のプライベートにまで踏み込むことはしませんので、解りかねますが」
「固いな、君は。仕事が忙しいのでと、やんわりと断ってきたらしいが、会ってもいないのにと専務からせっつかれてね」
「はあ」
「君から何とか一度だけでも会うように言ってくれないか?私にも立場ってものがあってね」
会社の誰に恩を売るかによって、この先の出世が決まるのだろう。他人の出世レースに巻き込まれるのは甚だ面倒だが、仕事がやりづらくなるのも困る。心の中で小さなため息をついた。
「頼むよ、羽山課長」
「……とりあえず、伝えてはみますが。今日のご用件はこれでしたか?」
「いやいや、魚心あれば水心。次のプロジェクトの概要なんだが、まだ他の会社には打診していない。これを君のところに優先的にと思っているんだが……」
それなりの見返りは用意した。さあ、お前は何を用意してくれるのかと言うことなのだろう。
「この件と、桜井の件は関係ありません。一応、伝えることは致します。桜井がどうこたえるのかは私の関知するところではございませんので」
「羽山課長、子供の使いじゃないんだから解っているよね」
事を荒立てず穏便に生きていたいと思っていても、災いの種は降り落ちてくる。もうこの会社のこの立場にいると言う事実さえ面倒ごとに思えてくる。
「連絡って…どうやってするんだ……」
デスクに戻り冷静に考えて見ると、その方法がわからず思わず言葉が出た。内線電話も社内メールでもこれは駄目だ。だとしたら携帯に直接連絡するしかない。
昼休みの時間を見計らってショートメッセージを携帯に送った。
『専務のお嬢さんの件、こちらに話が来ている。一度会うだけでもなんとかならないか』
送信したと思った途端、携帯が鳴った。
「羽山さん?何かご迷惑をかけてしまったのですか?」
「桜井?仕事は……」
「昼休みです。私何かご迷惑をおかけしているのですか?」
「いや…関部長から……」
なぜ自分が桜井の見合い話に巻き込まれているのか解らなかったが、それ以上に桜井の声を聞いて安心している自分自身に驚いた。きっと桜井は断るのだろうと思ってはいたが、それも仕方ない。
「……そうですか…そちらへ。申し訳ございません。今日、明日にでも先方には連絡させて頂きますね。もう、ご迷惑をおかけすることは無いと思いますので。ありがとうございました」
電話が切れた。
「会うのか、断るのかと思っていたよ」
切れた電話に向かって呟いた。そもそも何故断ると思っていたのか、そう思うと可笑しくなった。
「馬鹿だろ俺」
携帯をポケットに滑り込ませると。昼食を摂るために立ち上がった。目眩がしたような気がして、手をデスクについた。そのスチールの冷たさが手のひらから伝わってきた。
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