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第22話 夏至

 「連絡待っていましたよ」  桜井にそう言われたのは先週の土曜日の事。そしてその後なんの進展も無く……と言うよりただ食事をしただけで終わり、楽しかったと告げられて別れた。まるで狐につままれたような感覚を残して帰ることになった。  何を食べたのかさえもよく覚えていない。味もわからずただひたすら咀嚼して胃袋へと押し込んだ。「美味しいですね」そう言いながら微笑む桜井に曖昧に頷きつつこの先どこへ向かうのかも聞けず終わった。  「これどうするんだ」  日曜日にもらったメールには「昨日はとても楽しかったです。また会えますか?連絡します」と、だけ書かれていた。  連絡すると書かれていたのだからと返信することも憚られ、そのメールを眺めてはどうするかと考える日が続いている。  「課長、携帯眺めてため息なんて、恋煩いですか?」  突然部下に不意をつかれて、返答できず不覚にも赤面してしまった。  「す、すみません」  焦って謝った相沢は、三歳下で課長補佐という立場にある。長い付き合いだが、色恋の話をしたことはない。自分がマイノリティであることは自覚している。だから波風が立たないようにと細心の注意を払って生きている。  「いや」  「失言でした。課長の浮いた噂を聞いたことがなかったものですから、つい」  「仕事しろ、相沢。まだ、昼休みじゃないぞ」  あえて、いつもより平坦な口調で言う。部下に気取られるような失態を見せるなどあってはいけないことだと自分を戒めた。仕事の時に私事に思いを馳せるなど、社会人としては失格だと思っている。  結局、桜井からのメールを待ち何の行動も起こせないうちに水曜日になってしまった。自分から連絡をすべきなのだろうか?そんな事を考えていると、エレベーターホールのざわめきがデスクまで届いてきた。  ふと入口に目をやると、桜井が満面の笑みをたたえて立っていた。  「ご無沙汰してます、お久しぶりです」  桜井のいたずらっ子のような表情が見え隠れする。自分の顔が綻ぶのを見られないように視線を逸らした。  そのすぐ後に携帯がメールの着信を知らせてきた。  『夜、もしよろしければご一緒出来ませんか?今日はこちらの総務におります。直帰の予定ですので、羽山さんのご都合に合わせます。今日、こちらへ伺うのを内緒にしていてすみません』  メールに目を通しながら、自分の体温が上がるのが解った。  その日は時間が過ぎるのがなぜか遅く感じられ、仕事も思ったように捗らない。理由は解っているが認めたくないと思った。自分が若い頃のように何かを期待して落ち着かないとはどうしても思いたくはなかったのだ。  「課長、桜井が来てますけれど?」  相沢に声をかけられて、心臓が口から飛び出すほど驚いた。  「久々だな、忙しいんだって?」    相沢に声をかけられて、桜井はにこにこと笑いながら返事をしている。こんなところで待たれたところでと声もかけられず、動けない。  「羽山課長、お元気でしたか?相談したいことがあるのですが、この後お時間ありませんか?」  桜井のその台詞に応えるようにして、動くことがようやくできた。  「……ああ」  これ以上、ここで何気ない会話をするほど心臓は強くない。  「良かった、じゃあ羽山課長をお借りしますね」  その桜井の一言をきっかけにして、桜井に続くようにしてデスクを離れた。  会社の出口のガラスのドアに映る桜井と自分を見て、「単なる上司と部下だ、それ以外の何物にも見えない」と自分に言い聞かせる。この桜井の必要以上に近い距離感が勘違いをさせるのだ。  「羽山さん、今日はワイン食堂へ行きませんか?」  一緒にいると楽しいと桜井は言う。しかし一緒にいることが苦痛で仕方なくなっている。それと同時に会えない時間も苦痛なのだ。どちらにしろ、息苦しさにも自分の気持ちのもって行き場にも苦しむだけだ。  終わりにしたい、けれど終わりにすれば苦しい……。  「羽山さん?どうかしましたか?」  「いや、ワイン食堂でいいいよ」  結局、自分から行動を起こすことさえできていない。今日はまだ週半ば、明日のことを考えれば自重し早めに切り上げて帰るべき日。だから今日は行動は起こせない。そう自分の中で言い訳を続ける誰かがいる。  「……さ、くらい」  「はい?」  「悪い、やっぱり今日は体調がすぐれない。帰るよ」  藤倉にもう大丈夫と言い切った自分はどこへ行ったのだろうと、情けなくなる。それでも踏み出すタイミングを逃してしまった今、どうにも一歩が出ないのだ。  「私が家まで送ります」  「え?…いや、いい」  「駄目です。具合悪いのですよね、送ります」  一緒にいることが、その具合の悪い原因だとは言えず凍り付いた。その間に桜井は手をあげてタクシーと止めた。  「羽山さん、行きましょう」  桜井の手がすっと肩にまわった。抱えるようにしたタクシーに乗せらせ体がこわばる。ブレーキが利かなくなってしまった車が坂道を転がりだしてしまった。

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