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第23話 黒南風

   「大丈夫ですか?」  帰ると思っていた桜井がなぜかタクシーを降りてついてきた。本当に具合が悪くなってきたような気がした。入り口の扉の所で「じゃあ」と言いかけた時に、桜井が心配そうに顔をのぞきこんできた。その視線がさらに落ち着かなくさせる。  「大丈夫だから……帰れ」  「帰れと言われましても、体調の悪い羽山さんを置いては帰れません。いつもと様子が違いますし、顔色も悪いような……」  「なんとも無い」  「具合が悪いのですよね?」  こうなるともう禅問答だ。真意が汲めず互いに退けなくなっている。  「一人で大丈夫……」  「駄目です、私が大丈夫だと納得できたら帰ります」  棚上げにしておいた懸案事項が頭の上から降り注いで来た。どうにかこの場を切り抜けたいと思っても打開策がない。  「人がいると…落ち着かない」  「それは、私でも、ですか?」  もう逃げ場がない、後がない。ここで迷惑だと追い出してしまえば、桜井のことだ気をまわして二度と連絡をしてくることはなくなるかもしれない。それが怖い。  「……違う」  絞り出すようにしてやっと出た言葉はたった一言だった。その一言だけで、桜井は安心したような表情になる。間違いなく自分に向けられた好意がそこにはある。その好意の種類が問題ではあるのだが。  「羽山さん、鍵はどこですか?」  桜井に言われるがまま鍵を差し出す、サムターンががちゃりと回る音がして扉が開いた。  桜井は電気をつけると、自分の荷物を玄関の脇に置いた。  「羽山さん、熱はないですか?」  桜井の手がすっと額に触れ、思わず後ろに一歩身をひいた。バランスを崩しそうになったその体を桜井が軽く支えてくれた。    「着替えて横になっててください、何か口にできるもの買ってきます」  そう言うと、桜井は鍵を受け取り出て行った。扉が閉まると同時に体の力が抜けその場にへなへなと座り込んでしまった。  「どうしたらいいんだ」  とりあえずスーツをハンガーにかけ、薄手のスウェットの上下を身に着けた。横になれと言われても、落ち着けるはずもなくただ部屋の中をうろうろと歩きまわるのが精一杯だった。  「ただいま帰りました」  この部屋に「ただいま」と帰るのは、この十年自分一人だけだった。桜井の口から出たその言葉は耳から入って思考を乱す。  「……おかえり」と小さく、桜井の耳にさえ届かないボリュームでやっと答えた。  「横にならなくても大丈夫ですか?」  「いや、もう落ち着いたから」  最初から具合など悪くはないのだから、横になったところで何も変わらない。  「良かった。これ中華粥です。何がいいのかわからなくて、それ温めてもらいました。それとこれとゼリー飲料買ってきましたから」  「悪かったな、迷惑かけて」  「いえ、多分、私は羽山さんのことが好きなんだと思います」  「えっ……」  「兄とも違う、友達でもない。何でしょうね、ただ一緒にいて心地いいです」  「あ…ああ」  もう休んでください、私は帰りますと桜井は腰を上げた。早く眠ってくださいとだけ言い残して。桜井が明けた玄関の扉から、夕刻の雨のせいで湿気を含んだ生暖かい風が吹き込んできた。    「黒南風(くろはえ)ですね」  振り返り桜井が言う、その風に吹かれて甘いクチナシの花の香りが強く漂ってきた。  

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