「博多…か……」 　以前桜井が、博多は自分の出身地だと言っていたことを思い出した。 　「博多です」 　実は近くにあるのですが、ご存知なかったですかと桜井は楽しそうに言う。五分もせずに目当ての店には着いた。桜井はここですと両手を広げておどけてみせた。本当に住んでいるところからは徒歩圏内だ。 ほとんど外食で済ませているのに一度も来たことがなかったのが不思議なほどだった。 　昔ながらのたたずまいで、長いことこの地にあることが良くわかる。店に着いたのは十時半を少し回ったところで営業時間の前だった。 　「早かったかな……羽山さん、少し待つことになりそうです。いつも早めに開けるのにな……」 　別に待つのは問題ではない、一番の問題は隣でにこやかに立っている桜井なのだ。 　「待つのは構わないんだが……」 　 　桜井と二人並んで立っているこの状況が自分にとっては問題なのだと言うわけにもいかず、思わず語尾がはっきりとしない返事になっていた。 　「待つのは？何か他が問題ですか？」 　相変わらず桜井は敏い。気づいて欲しくないことにもすぐに気が付く。 　「いや……」 　「体調、やはり優れませんか？」 　そこじゃないとは言えず、黙ってしまった。 　「すみません、羽山さんと昼間から出かけられるとつい有頂天になっていました。辛かったらもたれ掛かって下さい」 　「……だいじょうぶ…だから」 　往来でいい歳した男が他の男に寄りかかって立つ？何を考えているのだと思う反面、そこに何の感情もないからの申し出なのだろうとも思った。そのくらいはわかる。勝手にこちらの感情を相手の言動に乗せてと喜んだり苦しんだりしているだけなのだと。 　開店と同時に席に着くと、昨日から何も食べていない所為なのか、それとも気疲れからなのか軽いめまいを起こした。こんなところで倒れるわけにはいかないと、テーブルに肘をつき両手で顔を覆うようにして頭を抱え込んだ。 　 　「大丈夫ですか？」 　心配した桜井が声をかけてきた。 　「……桜井、悪い。少し目まいがするだけだ」 　「すみません、奥の座敷使います」 　桜井はこの店をよく知っているのか、貸してくださいではなく使いますと厨房に声をかけた。 半分桜井に抱えられるようにして、奥の座敷に連れて行かれた。 　「横になってください」 　桜井は、冷たいおしぼりを額に乗せて心配そうな顔をしている。 　「すみません、私のせい……」 　「いや…大丈夫だから」 　そういいながら少し疲れたと目を閉じた。店内は昼食時間に合わせて人が次々と入って来たようだ。人の話し声、器の軽くぶつかる音、足音が少し遠くに聞こえる。目を閉じて、その音に集中しているとなぜか安心する、心地いいと思った。 　「……さん？…羽山さん？」 　名前を呼ばれて、自分が少し眠っていたことに気が付いた。 　「……どのくらい寝てた？」 　「小一時間くらいですよ、顔色戻りましたね。大丈夫ですか？もし、具合悪いようでしたら、帰りましょう」 　「なんともない、悪かった。この店にも迷惑をかけた」 　「大丈夫です。ここ座敷は昼間は使わないんですよ。バイトいなくて大将と奥さんでは回せないそうですから」 　「よく知ってるな」 　「ここで、大学時代にバイトしてましたから……」 　そう言って桜井は懐かしそうに微笑んだ。がらりと障子が開くと、年配の男性が顔を出した。 　「具合はもう良かとや？」 　「もう大丈夫やけん、心配せんとって。羽山さん、うどん食べませんか？」 　「なら、大ちゃんはいつものやろ？」 　「ごぼう天じゃのうて丸天二つにして」 　大将と思しき人と桜井の会話が異国の言葉のように響く。 　「羽山さん、丸天でよか……あぁ、いいですよね？」 　流れでお国言葉で話しかけてきた桜井が赤面した。珍しい、こんな表情もするんだと意外な一面を見てふとおかしくなって小さく笑った。 　「その丸天っての？なんだかわらかないけれど、それでいいよ。お前がいいと言うなら」 　そう言いながら自分の表情が柔らかくなっているのに気が付いた。 　「やっぱり羽山さんは笑顔が一番いいです」 　桜井も嬉しそうに笑った。