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第29話 風雲急を告げる

   窮屈だと思った。満員電車はいつも身動きが取れない。圧迫されて息が浅くなる。これだから都心の通勤は嫌なのだ。そう言えばこの前は鞄が人の波に押されて手から離れたと思い出した。  鞄……?  ……無い。  鞄は…持っていない。  それどころか通勤電車の中でさえない。  ……身動きが取れないのは、自分が桜井に抱きしめられているからだと気がつくまでしばらくかかった。  恐る恐る目を開けると、昨日横になった床ではなくいつものシングルベッドの中で、更には櫻井の腕の中で眠っていたのだ。  え!?  耳まで熱くなり、心臓が全速力で駆け出した。何故この状況に?身体を離そうと、桜井の腕から抜け出そうと動くと桜井が薄らと目を開けた。  「……ん…あ…おはようございます、羽山さん」  「……何故ここに……」  「あ、すみません。真夜中に目を覚ましたら羽山さん床で寝てて、また具合悪くなっては困ると」  そうじゃない。聞きたいことはそこじゃないと思った。なぜ同じベッドで抱き合うようにして眠っているのかという事だ。  「そ……うか」  「やはり男二人で眠るには少し狭いですね」  男二人どころか子供二人でもシングルベッドでは狭いだろう。桜井は大きく伸びをすると足をベッドから下ろし端に腰かけた。  「シャワーお借りしてもいいですか?」  帰れと言うのが正解なのだろうが、あまりにもここにいるのが当たり前のようにふるまう桜井に「ああ」としか答えられなかった。  「……ひどい顔だな俺」  鏡を見て桜井がつぶやいた。ぼさぼさの髪に、しわだらけの綿シャツ、伸びかけた髭、どれをとっても普段の桜井とは違う。会社では見ることのないそんな姿に愛おしささえ覚えてしまう。  「そこにタオルあるから……」  さすがに貸せる着替えはない。あってたとしても自分と桜井では体格が違う。  「ありがとうございます」  お礼を述べると、桜井は昨日買ってきて床に置いたままになっていた買い物袋から必要なものを取り出していく。そうだ昨日、桜井は大きな袋を二つ下げて帰ってきたと思い出した。あまりにも用意が良すぎる。最初から泊まるつもりだったのかと不思議に思った。  「じゃあ、おかりします」  キッチンと呼ぶにはささやかすぎるシンクの前に立つと、コーヒーメーカーをセットした。シャワーの音が聞こえてくる、その音を聞きながら自分の頭の中が誰にも見えないことに羽山は安堵する。自分が桜井に求めているのは上司と部下と言う関係でもなく、仲の良い友達でもないことを改めて自覚した。  コーヒーをマグに移すと、テーブルに置いた。二つ並んだマグを見て、自分が今置かれている状況とその先を考えて怖くなる。引き返さない道に踏み出してしまったことを知ってしまったからだ。  ふわりと洗い立ての髪の香りがした。普段自分が使っているものなのに桜井からするその香りは別のものだった。  「羽山さん?」  「ああ、ドライヤーなら鏡の横に」  「いえ、普段使いませんから。お先に失礼しました」  そこにいるのはいつもの見慣れた桜井で、その笑顔に心臓が痛くなる。限界はもう見えている。いっそのこと叩き切られたら楽なのにと思った。  「……お前、そろそろ帰れよ」  そういうのが精一杯だった。  「邪魔ですか?それとも迷惑ですか?一緒に居たいと思うのは駄目ですか?」  桜井は解っていない。その存在がどれだけ大きな意味を持っているのかを。それなのに一緒に居たいと言う。腹が立つ、どこまで無神経なんだと、いらつきが限界を超えた。  「迷惑だよ、お前が…そうやって土足で人の中に踏み込んでくるのも。無神経に近寄ってくるのも、全てが嫌だ!お前は自分が何をしているのか知らないんだ」  「……どうしたのですか?私何か、しましたか……」  「何も、何も、お前は解ってない……俺は……お前が好きなんだ……」  この言葉の意味が解らないほど、桜井は鈍くはない。そう桜井ならとっくに気づいていたはずなのにと泣きたくなった。  「……」  桜井は何も答えない、ようやく終わった。もうこの先はない。  

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