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第30話 蒼穹

   次の瞬間、なぜか桜井の腕の中にいた。  「え?」  「あの……これ正解ですか?」  これでようやく終わると思っていたのに、事は思いもよらぬ方向へと向かうものだ。桜井は照れくさそうに笑っている。何故か木偶人形のように立ちすくんで、しっかりと桜井に抱きしめられている。  「悩んでいました、羽山さんの私に対する態度に。嫌われているのかと思ったことも何度もありました。逸らされる視線を気にしていつも追いかけていました。」  「……」  「自分が何を、なぜそんなに気にしているのか答えが解らないまま移動の辞令が出ました。新しい部署になって仕事に忙殺されて、疲れた時に思い出すのはいつも羽山さんの事でした」  どうしても桜井の言葉の真意が自分の想いと同じだとは思えなかった。  「お前……自分が何を言っているのか解っているのか?」  「解りません。正直、自分の気持ちがなぜこんなに羽山さんに向うのか」  「どういう……意味だ」  「自分の気持ちが、誰かにここまで揺らされたことが今まで一度もないのです。これほど誰かが気になったことは一度もないのです」  「でもお前は……違う……」  「正直、自分でも解っていません。でも羽山さんを失ってはいけないと信じています。そのことだけは解っているつもりです」  「お前の好きと、俺の好きでは意味が違う」  「どうして違うと決めつけるのですか?」  まだ桜井の腕の中にいて垂直に凍り付いたまま、身動きさえとれない。その体温は心地よく、そこから逃げようとはどうしても思えなかった。  「……」  自分の恋愛対象は世間の大半の人とは違う。そのことは百も承知だ。  「この状況でそこまで言われたら勘違いしそうだ、離れろ桜井」  「勘違いですか?勘違いして、何か問題ありますか?」  人を愛する気持ちにはその対象が誰であれ恥じることはないと思っている。だから桜井が誰を好きでも問題はないのだ。ただ、そこに自分が中途半端に巻き込まれるのが問題なのだ。  前に進むために桜井に想いを伝え、切り捨てられることを是としようと、否定される事を前進のきっかけにしようと、藤倉と別れたあの朝に決めたのだ。これでは予定と違ってしまっている。  そして、よくわからないという相手とお試しに付き合うほど自分は若くない。重たいと言われようと、手軽な関係を求めてはいないのだ。  「お前は何も解っていない」  「そうでしょうか?羽山さんの方が解ってない気もします」  「後でやっぱり駄目でしたと言うのか……」  「羽山さん、怖いですか?少し私を信じてもらえませんか?」  桜井に抱きしめられて動くこともできない。その事実が示している。とうに自分の答えは出ているのだろう。  「桜井…痛い」  「すみません、逃げないで下さいね」  逃げるなと言われ羽山はその場所から動けなくなった。なぜならまさに今、ここから逃げ出そうとしていたからだ。  「……どうすればいい……」  十も年下の相手に助けを求める自分が情けない。それでも桜井次第でこの先は変わる。  「もう少し一緒にいさせてください。もっと近寄ってみませんか?」  ただ信じて、溺れて桜井がいないと息が出来なくなってしまった時に手を離されることが怖い。 桜井は何に対しても真っすぐで、正直だ。桜井が語る言葉に嘘はない。それは解る。  きっと溺れてしまう。そう思いながらも隠れた場所から見つけられ青空の下に連れ出されてしまった。陰り一つないその笑顔に頷くことしかできなかった。

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