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第31話 薄曇り

   あの日曜日から二週間、何が変わったのかと聞かれると何も変わってはいない。ただ、桜井からのメールが毎日来るようになったことと、時間があれば誘い出されることを除いては。  『おはようございます』から始まり何気なくこちらを気遣う内容が連ねられている。『今日も一日お疲れさまでした。おやすみなさい』で一日が終わる。積もっていくメールの数と、積もっていく気持ちの量が比例しているのは自分でも解っている。  朝起きて一番に携帯を確認し、何等かのメッセージが届いているという事実に安堵する。定期便のようなメールが少しでも遅れると不安になる。自分から送ればいいと思うが、それがまだできない。  「羽山さん、今日は夕飯どうします?」  仕事が早く片付くと必ず連絡をくれる。桜井はマメだ。桜井にとってはこうやって誰かと頻繁にでかけるのは普通の事なのかもしれない、しかし自分は特別な相手以外と食事に出かけるのは滅多にないことなのだ。  それらのひとつひとつが、不安以外の何物でもないのだ。なぜならこの状況は全て桜井次第だからだ。今の関係は単なる仲の良い会社の先輩と後輩以上のものではない。この先の道は見えていない。  「……なん…でもいい」  「いつもそうですよね、羽山さん。たまには何が良くて、何が良くないのか教えてください」  「別に…本当に何でもいいんだ」  藤倉との付き合いの中では、後をついて行くことが自分の役割だった。常に藤倉を優先していた、それが体に染みついてしまっているのだ。  「今までわがまま言われるのは面倒だと思っていましたけれど、ここまで何も言われないと不安になるものなんですね」  「わがままって……別にそういう付き合いじゃないだろ……」  今まで一体誰にわがままを言われてきたんだかと、桜井の見えない過去にさえ嫉妬してしまう。それをおくびにも出さずに自分の感情に鈍感なふりをする。  「というより……何がして欲しいと言うのも、言われるのも相手がいてこそですよね。初めて知りました。だからもっとわがまま言って欲しいです」  「……」  「あ、別に責めているわけじゃないんです。どうしたら喜んでもらえるかなと考えてはいるのですが、どうしてもわかりづらくて」  「桜井の行きたいところで……いい」  「じゃあ、こうしましょう。今日は私が決めます。明日は羽山さんが決めてくださいね」  明日と言われて明日があると安心する。もうこの年齢だ穏やかに日々を過ごすそんな相手を探して、そんな恋愛をしたいと思っていたはずなのに。気が付いたら、桜井の言葉や表情に一喜一憂する関係。食事をして家まで送り届けられ、さようならと帰っていく。まるで子供のように大切に守られているが、先へ進む気配がない。  勢いで口にした言葉に対する責任感で一緒に居られるのはつらい。けれど、失くすのはもっとつらい。求められないと不安になる。けれどそれを自分から言い出せるほど厚顔ではない。  「……明日は、夕飯作るから来ないか……」  それだけが精一杯。誘いの言葉をどうとるのかは、桜井次第。  「本当ですか?羽山さんの手料理ですね!」  嬉しそうに答えてくれるだけで、安心する。もしも躊躇されたらそれだけで否定されたような気持ちになるのだろう。  「何が食べたい?」  「何でもいいです。あ、何でもいいじゃ駄目だ。えっと、カレーが良いです」  「カレー?そんなもので良いのか?」  「ええ、カレーが良いです。じゃあ、今日は和食にしましょう。この前接待で行った店、羽山さんを連れていきたかったんです」  決まった店があるのだったら、先に言ってくれれば楽なのにと思った。それと同時に明日の約束が出来たことが嬉しかった。まるで今までの経験を全て否定するほど幼い恋愛をしているようだった。   

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