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第32話 光芒

   「相沢、仕事終わりそうか?今日はもう上がろうと思うが後は任せていいか?」  「後は日報の締めだけですから、大丈夫ですよ。データ保存したら私も帰ります」  管理職には手当てが付くが残業代はつかない。だから早く帰りたがる者もいるが、別に急いで帰る理由もない。誰もいない部屋に戻るより会社の方が楽だから残業しているのが常だった。  仕事を終わらせて足早に帰る。それこそ何年ぶりだろう。桜井のためと言うよりこれは自分のためなのだ。  「お疲れさまでした。あ、そういえば……ロビーで桜井見かけましたよ」  「え…そう……」  桜井が予定外の行動に出るのはいつもの事だが、心臓に悪い。今日は、早く帰って食事の支度をし待っているはずだったのだから。  「じゃあ、お先に」  相沢に普段通りに声をかける。果たして普段通りにできたのだろうか、それさえもう自信がない。  「桜井、お前なにしてるんだ」  ロビーに出ると来客用のコーナーに桜井が座っていた。  「あれ?驚かせようと思っていたのですが、残念。びっくりしませんでした?」  「……いや、こういうのは止めてくれ」  「怒ってます?すみません、たまたま今日こちらに用事があって、直帰にさせてもらっただけですから。この次からきちんと連絡します」  途端に叱られた子どものように小さくなる。名案だと思った計画が失敗して、それは単なる悪戯だと叱られてしまった子どものようだ。  「いや、別に……」  少し遅れて後をついてくる桜井を見て、怒っていないと伝えそびれたと思った。  「……で?なぜカレーなんだ?」  声をかけてやると、遅れて歩いていた桜井がようやくそばに寄ってきた。  「カレーだったら一緒に作れるのではと思ったものですから」  こういう発言が一番困る。自分のペースを崩される。一緒に何かを……今までにない付き合い方に対処法がわからないのだ。  「いや、一人で作れるから」  「そうではなくて、一緒に何かすることが大切じゃないですか?この時間なら、買い物にも一緒に行けますね」  答えられなくなり、黙りこんでしまう。ただひたすら歩く。桜井は余計な事はそれ以上言わずただ同じように横を黙って歩く。  ……息苦しい。  梅雨だと言うのに雨が降らない所為なのか、一日中太陽に暖められていたアスファルトから伝わってくる熱の所為なのか呼吸がつらい。なぜか苦しいとそう感じた。  「……そこのスーパーに寄るから」  「はい」  二人で並んで買い物をする。別におかしなことじゃない。人はこちらが思うほど、気にはしていない。気にしているのは自分だけだと解っている。  「桜井、近い……」  「え?そうですか?じゃあ離れますね」  簡単に買い物をすませて、自宅へ戻る。一日締め切っていた部屋からはむっとする空気が流れてきた。桜井は当然のように「おじゃまします」と、断りを入れると部屋の窓を開けた。  キッチンに立つと、桜井が横に並ぶ。  「何、手伝いましょうか?」  「邪魔、座ってろ」  「え?それじゃカレーにした意味ないじゃないですか」  くすくすと笑うと桜井は手を伸ばして玉ねぎを取り上げた。触れた手を慌てて引いたせいで水道の水に当たり水しぶきを散らした。  「そんなに驚かないでください」  「……」  睨むように桜井の方を見る。思ったより顔の距離が近い、そう思った瞬間に桜井が柔く唇を覆ってきた。  静かな部屋の中で、水道の水がシンクで跳ねて音を立てていた。

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