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第33話 草いきれ
「え……」
ほんの一瞬の出来事だった。すっと離れた桜井は、薄く笑いながらその唇を指先でなぞった。
「すみません、つい」
桜井は瞳を覗き込みながら続けた。
「なぜか無性に羽山さんに口づけしたくなって……駄目でしたか?次回からは許可を取ります」
「……え、いや」
触れるというよりかすめただけ、それくらいの口づけだった。それなのに軽く触れあった場所がまるで熱傷をうけたようにひりひりと痛む。
「この玉ねぎ皮むきますね」
まるで何事もなかったように桜井は振舞う。いや、何事もなかったのだろう。恋人同士が戯れあったわけではない。まだ二人の関係には名前がないのだ。
「さ…くらい、どけ」
呼吸がつらくなる、今の関係をはっきりさせてほしいと叫び出したい自分がいるのだ。
「あ、やっぱり邪魔ですか?」
わざとなのか無神経なのか、どちらとも取れる反応に苛つく。流しっぱなしになっていた水道の水を止めると、静寂がやってきた。
「羽山さん?どうかしました?」
「帰れ,、お前」
「……なぜですか?」
互いの想いを乗せた天秤は、自分の方が重い。だからこちらへ傾いたままなのだ。いつまで経ってもバランスが取れることはないだろう。
「帰れ……」
「羽山さんは……どうしたいのですか?」
それはこっちの台詞だろう。下駄は既に桜井に預けてある。はっきりとした答えをもらっていないのは、自分の方なのだ。
「お前がそれを言うのか?」
「どうなりたいのか、どうして欲しいのか、言われないと分かりません」
どうなりたい?桜井くらい察しのいい男ならとうに気が付いているはず。敢えて何を言わせたいのだろうか。
「……」
「羽山さん、そうやって黙り込むでしょう。肝心なことはいつも言ってくれない。こちら次第と言うのは嫌なんです。どうして欲しいのか教えてください」
言えるわけはない。四十を前にして、十も年下の相手に抱いて欲しいと、そういう関係を求めていると言えるわけがない。若い頃から相手次第の恋愛しかして来なかった。
「こちらから一方的に連絡をするだけで、羽山さんからは来ない。これでは羽山さんがどうしたいのか、いつまで経っても分かりません」
「どうしたいって……」
「簡単な事です。羽山さんが私にどうして欲しいのか、どんな関係を求めているのか教えてくれれば、そうすれば身動きが取れます」
「そんなこと……」
「どこまで大丈夫で、どこからが駄目なのかさえ分かりません」
「お前は、お前はどういう関係を求めているんだ……」
「違います。私のやりたいことではなくて、羽山さん自身の事です」
堂々巡りになっている。
「連絡ください、羽山さんから……私と話したいと向き合いたいと思ってくださったら」
そう言い残すと、桜井は荷物を持ち部屋を出て行った。身動きもできず、待てとも言えずその場に縫い止められたように立ちすくんでしまった。
「……桜井」
大きく息を吸い込むと、慌てて後を追いかけた。桜井が部屋を出てまだ五分も経っていない。外に出て辺りを見回したが桜井の影はもうどこにもなかった。
生暖かい風が、吹いて来た。むせるような草いきれに包まれて立ちつくした。
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