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第35話 雨雫

 「お前が戻ってくるなら、全てを捨ててもいいと十年前に言ったはずだ」  「……戻らないよ、それは知っているだろう」  「自分を犠牲にして、俺は何を得た?」  ……戻らない。時間は巻き戻せない。もう既に違う道を歩き出してしまったのだ。そのことは十分に知っているはずなのに、なぜ今更過去へと戻ろうとするのか。  「家族をそして、未来を得たじゃないか」  「……お前が一番必要だった」  「俺さ、藤倉に会えてよかったと思っているんだ」  「だったら……」  「出会わなきゃ良かったなんて思いたくないんだよ」  「……」  「好きだよ藤倉のこと」  「俺もお前が愛しい」  抱きしめている藤倉の腕に力が入った。  「最後まで聞け、そう言う意味での好きはもう燃え尽きたんだ」  「……どうして、ついこの間まで確実に俺の手の中にあったはずだ」  「何故だろうな、気持ちだけは自分ではどうしょうもないんだ」  この十年、決して表にはださなくてもどこかに希望を持っていたのかもしれない。愛し合っているのに別れた、憎んだこともない。自分は正義だと、どこかで思っていたのだろう。  正義であるはずの自分が、蔑ろにされる訳はないと勘違いしていた。  今こうやって、藤倉に愛しいと言われて心が躍らない。情はある、ただその情の形が変わってしまったことに気が付いた。  「あの若いやつに負けたのか……」  「藤倉、俺はお前のことを十分に魅力的だと思うよ。けれど違うんだ。勝ち負けじゃない」  「お前がよくしゃべる時は、ろくなことがないな」  藤倉は泣きそうな顔をして笑った。  「藤倉がいてくれたから今の俺がある。出会ってくれて、俺を大切にしてくれてありがとう」  「……俺はもう必要ないんだな」  「友達が必要のないやつなんていないよ」  「もう数年早かったら違ったのか……」  「過ぎたことを、今更仮定しては答えられない。でも藤倉のおかげで、自分がどうすべきか気持ちの整理がついた」  「あいつのところへ行くのか?傷つくぞ」  「帰れよ、家族のところへ。お前を必要としている小さな手があるんだろう」  藤倉の背中を抱きしめる代わりに優しくたたいてやる。  「……また会えるか」  「友達としてなら」  人に想いを伝えることの怖さを知った今、藤倉の行動の裏にどれだけの勇気と力が必要だったのかよくわかる。けれどその想いに流されては駄目なのだ。  桜井は歩み寄ろうしてくれている、きちんと答えられていないのは自分なのだ。藤倉は何も言わずに帰っていった。もう二度と会えないかもしれない。  ドアを出る藤倉の背中を見た時に、引き留めたいと思ってしまったのは過去の残像なのだろうか。  藤倉の性格を考えると、あれで引き下がるとは思えなかった。だとしたら、本当は藤倉自身もどこかで分っていたのだろう。もう二人の間にあるのは、過去の影、幻影にすぎないと。  携帯を手にすると、着信履歴の二番目になってしまった番号をタップした。コール音が聞こえる一回、二回……。  早く電話に出て欲しい、吐きそうになる。コール音が続くと、お前は不要なんだとその音が言っているようにさえ聞こえてくる。  「はい」  「桜井……カレー作るから…食いに来てくれ」  くすっと電話の向こうで笑うのが分かった。  「はい、すぐに行きます。会いたいと言ってくださるかと期待していたのですが?」  その声からはまんざらでもないと言う桜井の気持ちが伝わってきた。

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