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第36話 雨翔

   すっかり夜も深くなっていた。明日会社は休みだとはいえ、この時間から食事、ましてやカレーを食べるのはつらいと思う。しかし、桜井は嬉々としてカレーを自分で皿に盛っている。  「美味しそうですね、私が手伝わなくて良かったかもしれません」  桜井は若いなと思う。その行動のひとつひとつにそう感じる。 卑屈になっているわけじゃない、けれど十年の差は大きい。藤倉との恋愛につかれてぼろぼろになっていた時、桜井はまだ高校生だったのだ。  「全部食えよ、お前のリクエストだ」  「羽山さん、何かありました?」  くくっと笑った桜井が言う。  「何言ってるんだ、何もない、何も変わらない」  そう何も変わらない、ここに呼び出しておいてなお、何も伝えきれていないのだから。  「いただきます」  ひと匙掬うと口へ銀のスプーンを持っていく、美味そうに食うんだなとその口元を見つめていたら、桜井の動きがふと止まった。  「あの……羽山さんは、召し上がらないのですか?」  「この時間にカレーは無理……」  「そうですか、リクエストの内容が悪かったのですね。では、お詫びに朝食は私が用意しますね」  「朝食……」  それは、明日の朝までここにいるという事……。そう思った瞬間から焦りがでてきた。この先の話もできていないし、何から話したらいいのかわからない。  「ええ、何がいいですか。和食は無理ですね」  そういいながら楽しそうに語る桜井を見て困惑していたら桜井がまた口を開いた。  「反省したんです」  「え、誰が?」  「あ、もちろん私です」  「反省って……」  「自分が羽山さんに失礼なことを言ったという自覚はあります」  「……」    「なぜか近寄るなと言われたようで、腹が立ってしまって……私はどうしたら良いのかずっと迷子です」  「桜井、お前は……何を求めているんだ?」  「わかりません」  「……だよな」  「それ、何か問題でしょうか?」  「問題だろう、空いた時間を一緒に過ごす相手として、最適とは思えないのだが」  「じゃあ羽山さんは、私が他の人と過ごせばいいと思っています?」  「……」    「答えてください、そうやって肝心なところを黙るのは駄目です」  「お前の気持ちが知りたい」  「私は羽山さんの気持ち次第だと思っています、違いますか?私の事をどう思ってくださっているのか教えてください」  「……恋愛対象…として見ていると言ったら?」  「はい、私も恋愛対象として見ています。ただどこまでがその範疇なのかが分からないだけです。こうやって手をつなぐのは駄目ですか」  桜井の手がすっと伸びてきて床についていた手の上からかぶさる。  「羽山さん、嫌ですか?」  「……嫌じゃない」  これでは自分の方が子どものようだ。桜井は指をしっかりと絡めてきた。少し湿ったその手に包まれ、少しだけ呼吸が乱れた。  「じゃあ、こうやって……」  桜井は語り掛けながら、テーブルを回り込んできた。気が付いた時には、桜井の腕の中に囲い込まれていた。  「抱きしめても良いですか?」  背中に回された桜井の腕の中で、呼吸ができないほどの狂おしさに駆り立てられた。

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