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第38話 七夕

   桜井が離れたあと、冷たい風が通り抜けひんやりとした感覚だけが身体に残る。  「桜井、ベッドひとつしかないんだが……」  ここは自分だけの城だった。全てを失たったと思ったあの日から、誰かに依存するような関係にはならないよう線を引いてきた。ここで朝を迎えた相手は他にはいない。  「知っています、大丈夫です」  何に対しての大丈夫なのかが分からない。一緒に眠るから大丈夫なのか、それとも眠らないから大丈夫なのか。この間は意識のないままベッドに運ばれたが、今日はそうではないのだ。  「この季節ですし、丈夫にできていますから床でも平気ですし」  「……そうか」  桜井と自分との温度差があるのは仕方がないと思う。桜井は自分の感情にも正直で嘘がない、今目の前にいる行動の全てが、話す言葉の一つ一つが桜井の真実で思いの丈だ。感情も表に出せない、いや出さない自分とは違う。  どこまでを自分が望んでいるのかを見せないないのに、相手の気持ちはどうしても知りたい。恋愛感情はあると言われても相手の心の中の温度までは測れない。それが怖い。  「羽山さんが……隣でも構わなければ、私はそちらで眠りますが」  桜井の一言に呼吸が止まりそうになる、一瞬心臓さえ動きを止めた頭だった。胸が苦しい、止まったかと思った心臓が不規則なリズムで動き出したようにさえ感じる。  「……かまわない…が」  「はい」  あまりにも桜井らしい。今までの恋愛は全て否定して、また一から築き上げる必要があると分かっていたつもりだったが、あまりにも違う選択肢、そして回答を示されて困惑する。  「羽山さんは、私が隣に居ても平気ですか?」  平気とはどういう意味かにもよるが、一緒にいたい、その体温を感じていたいというのは間違いない。  「お前が嫌でなければ、一緒にいたい」  「では、同じですね」  違うよ、桜井。自分にはもっと深い欲がある。  「そうか?」  「ええ」  桜井がそう言うのならそうなのだろうか。  「今日は疲れたからもう寝るが」  「おやすみなさい、私はもうしばらくしたら眠ります」  人に見られながら眠る趣味は無いが、一緒にベッドに入られるのも困る。  「勝手に風呂は使ってくれていいから、おやすみ」  そう言って背中を桜井に背中を向けて横になる。桜井が電気を落とした。その瞬間に緊張が走った。眠れるはずがない、背中に視線を感じる。桜井の動く気配がする、見ていなくても手に取るようにわかる。  目を閉じる事さえできずに、まんじりともせず朝を迎えることになるのだろう。  がたっと音がして、桜井が浴室に移動するのが分かった。もう何がどこにあるのか分かっているのか、常夜灯の薄明りの中でも自然に動いていた。  桜井の立てる小さい音のひとつひとつが、肌を刺す。ちくちくと痛みにも似た感覚に叫び出しそうだった。  かちゃりと小さい音がして、桜井が部屋に入ってきた。この前も感じたこの香り、自分と同じ石鹸を使っているはずなのに違う。  ガラスのコップが立てる小さな音、水の音、それを飲む桜井の喉が立てる音、すべてが耳から入って、感覚を侵食していく。  ことんと、コップが流しに置かれた音を最後に生活音が全て止まった。  そして……ベッドがきしんだ。  ……心音がだんだんと速くなる。外に聞こえているのではないかと言うほど暴れている。身体が緊張で硬直する。  その次の瞬間、桜井の腕が背中から這うようにして腰に回ってきた。  「……っ」  その声に桜井は手を放すと、身体を起こした。  「羽山さん?起きていらっしゃいます?」  「……」  「心臓の音、すごい」  「ちがっ……」    振り向くと、自分の胸に手を当てた桜井がそこにいた。  「私の心臓の音すごい、聞こえます?」  ゆっくりと、上から覆いかぶさるようにして桜井が口づけてきた。触れるような口づけではなく、熱を持ったその行為にようやく桜井の心の端が垣間見えたような気がした。

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