風に潮の香りが混じる場所で朝から食事をする、考えてみれば公に出歩ける恋愛などした事がなかった。 　目の前には、手の込んだ皿が並んでいる。外のテラス席に座ると、まるで別世界に切り離されたような感じがある。こんな朝早くから誰が食事をしにわざわざこんなところまで足を運ぶのだろうかと思っていたが、結構店内は混雑していた。 　昼間に誰かと、出歩くなどありえない事だった。夜の帳に隠れて肌を重ねる、それだけが自分の恋愛のあるべき姿だと思っていた。 　桜井はどう考えているのだろう。単なる好奇心からの一時の気の迷いだったら御免だと思っていたが、それでもいいと思い始めた自分がいる。 　永遠にと誓っても儚いのが人の常だから、この一瞬がいつまでも続くことだけを願っていればいいのかも知れない。 　決して長くは続かない、その覚悟さえあれば大丈夫なはず。 　「羽山さん、海はお好きですか？」 　「え、いや特に……好きとか嫌いとか考えたことはなかったな」 　「私の生まれ育った所は山の中腹から海岸線が臨める街でした、いつかお見せしたいです」 　「そうか」 　未来の約束は欲しくない、そこに縋ってしまう自分がいるから。 　「興味無いですか？」 　「いや、そういう訳では……」 　桜井が小さくため息をついた。 　「今まで、人並みに恋愛はしてきたと思っていましたが……」 　「……？」 　「相手に合わせて付き合うと言うのは……違いますよね」 　相手に合わせて付き合う、それが自分の今までの恋愛だ。桜井は何が言いたいのだろう。 　「どういう意味だ？」 　「今まで付き合った人……すみません、この話不愉快ですか？」 　「いや、……続けて」 　「今まで付き合ってきた人に対しては、相手のやりたいようにと努めてきました。特に自分から何かをしたいと、思ったことがなかったからです。でも、駄目なんです」 　「駄目って、そういう付き合いが、駄目なのか？」 　「いえ、羽山さんに対しては、あれもして欲しい、こうしてあげたいと、次々と自分のしたいことが出てくるのです。何も言ってもらえないからかと思っていましたが……」 　「本当に別にやりたいことも思いつかないんだよ、もうこの年齢だし……」 　「違います、そうじゃなくて、今初めて本当に人を好きになったのかもしれないと考えていたところなんですが」 　「……え」 　目の前の若い男は、まぶしいくらいの朝日の中で堂々と自分の恋愛を語る。自分には似つかわしくないと思って苦笑してしまった。 　その時一陣の風が吹いた。海の上を渡ってくるその風は、潮の匂いと十代の頃の懐かしい記憶を一緒に運んできた。 　『俺さ、一稀がいれば何もいらないや。大人になったら海外に行けば結婚だってできる。きっと変わるよ、時代が追い付いてくれるからさ、それまで待っててよ』 　有頂天になって、明るい未来だけを考えていたあの頃。そして十分に愛して、十分に傷ついた。もうあの頃のような情熱も枯れてしまっている。 　「そうか、それはありがとうと言うべきなのかな」 　そう答えると桜井は嬉しそうに笑う。お天道様の下で語れる恋愛ではない事も、身をもって知っている自分とは違うのだ。 　砂浜では、小さなカニが太陽に温められ熱くなり始めた砂浜から逃げるように岩陰に隠れた。そして、その砂浜は誰にも咎められずに人生を謳歌できる人々に占拠された。 　……あのカニだな……自分もきちんと隠れる場所を見つけなくてはいけないのだ。 　「桜井、そろそろ帰ろうか……」 　「駄目です、今日は私のやりたいことに付き合ってもらいます」 　諦めることを知らないその強さに、しばらく振り回されて見るのもいいのかも知れない。