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第44話 黙過
桜井と恋人として付き合っているという実感はなく、あの週末は何だったのだろうと不思議にさえ思うようになった。
月曜日も火曜日もただ日記のようなメールが来た。取り立てて変わったことがあるはずもない社会人の平日だ。ここ三日まるで仕事の報告書のようなメールを受け取っていた。
そのメールにただ「お疲れ様、また明日」とだけ返事をする。会社の愚痴もなければ、面白い出来事もない。桜井に伝えることなど何もないのだ。このままメールが一日おきになりそして連絡も来なくなる、そういう明日が来るのだろうかと思い始めた。
一週間は、会社勤めだと粛々と過ぎていく、それだけだ。その繰り返しの先に桜井との明日がないのなら、それはそれで仕方ないのだろうと考えるようになった。
諦めの良さが自分の美徳の……はずだった、そう少なくとも今までは。ところが今回ばかりは感情の制御が出来なかった。水曜日の夜には、とうとう癇癪を起したいほど苛々して、なかなか寝付くことさえできなかった。
「羽山、暑気払い明日の夜だからな」
寝不足なのか、最近の天候の所為なのか、少しめまいがすると目頭を押さえて、下を向いていた時に同期の久米に突然声をかけられた。
「……ああ、そうだったな。ありがとう、今回の幹事は誰だ?」
年に二回、同期での飲み会がある。暑気払いと称して七月に一度、忘年会と称して十二月にもう一度、その幹事は持ち回りで変わる。
「御園だよ、この間駐在から帰って来たろう。洒落た店らしいが、会費五千円で飲み放題だと言っていたな。本当に喰うもんあるのか、大丈夫なのかな」
「御園か、懐かしいな。帰ってきたばかりなのに幹事を引き受けたのか、あいつらしいな」
御園は自分と同じセクシャルマイノリティだ。二年前偶然に新宿の店で会った、それから何度かその手の店で会って話をしたことがある。御園が相手だとどんな話でも鬱々とした方向へはいかない。気が置けない相手だ。
もともと御園はオープンな性格で、自分の恋愛対象についてもカミングアウトしている。しかし、他人の事をとやかく触れ回るようなやつではない。話が面白く、軽快なフットワークの持ち主だ。自信に満ち溢れていて自分とは違うタイプの人間、そして御園は人を不安や不快にさせるようなことは決してなかった。
いろいろな事を話すようになって、数か月後アメリカへ駐在に出て行った。それっきり疎遠になってしまっていた。あれから二年間の海外駐在を経て、国際営業本部に戻ってきたばかりだ。アメリカでは恋人と一緒に暮らしていたと風の噂で聞いくらいで、それ以上の事は何も知らなかった。
久々だなと懐かしく思った。ゆっくりと話ができる相手が戻ってきたことが嬉しかった。桜井との事の顛末を語るつもりはないが、それとなく相談くらいはできるだろう。
「そういや、お前さ、仲良かったよな御園と?」
「そうか?普通だと思っていたが……」
「時々、一緒に食事に出かけてなかったか?」
「ああ、何度かあるが。他のやつもあるだろう、あいつは友人も多いし」
「いや……まあいいか。飲み会忘れるなよ、明日な」
何か言いかけて、止めた久米の顔色をうかがう。確かに他の同期よりよく話をしていた、しかし御園とは友達以上の関係ではなかった。御園には当時、恋人もいた。普通の友人として、酒を酌み交わすだけの仲だった。
「ああ、ありがとう。また明日」
じゃあと手を挙げると久米はエレベーターホールの人混みにのまれていった。同期の久米と別れると、いつものようにデスクへと向かう。
……いつものように仕事を淡々とするだけだ、そう思っていた。けれど久米の最期の一言が気になりだした、喉に刺さった魚の小骨のように届かない小さな苛々を引き起こす。
御園と仲良かったよな……その言葉の裏に何か隠れていないのか余計な心配をする。考えすぎかと、パソコンに向かう。まだ電源の入ってない黒い画面い映った顔は、不安で険しい表情になっていた。
「馬鹿な、何も気にすることはないんだ……」
小声で自分自身を落ち着かせるように言い聞かせると、パソコンの電源を入れた。
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