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第50話 灼熱

     『溺れる……』  そう思った。暴力的だ、別に殴られている訳ではないが、髪の先から足の指の先まで蹂躙(じゅうりん)されるようだ。  「や、め……ろ」  何度、そう制止しても桜井は止めない。床に押さえつけられて、髪に頬に、首に優しく触れるような口づけを落としてくる。ぞわぞわとした感覚に肌は粟立つ。  「羽山さんが、私の腕の中に完全に落ちてくるまで嫌です」  もうとっくに落ちている、本当は出会ったその瞬間から落ちていた。どこかでブレーキをかけながら退いて来たのに。桜井は無理やり近づいて来て、隠してあった心を陽の当たる場所に引き摺り出そうとする。  若い頃のように自分の気持ちを認めてしまい、好きだと臆面もなく叫べれば簡単なのかもしれない。けれど年上としての意地もある、自分を見失うような痴態は晒したくない。十も年下の相手に素直になれと言われても無理なのだ。  「もう、や…め」  靴下を引き剥がすように取ると、右足の親指を桜井は口に含んだ。目を逸らすこともしないでこちらを見つめて、つと吸い上げた。  「さくらい、やめろ桜井っ!」  つい力が入った、蹴りつけるようにして自由を得た。後ろに蹴り飛ばされる形になった桜井は、床に尻をついた状態で倒れた。  「お前、おかしいぞ」  「羽山さんの瞳には、私は映らないのですか?今でもあの日と同じように」  「あの日?」  「そうです」  「いつ……」  「五年間のあの日、羽山さんは涙を流さずに泣いていました、綺麗でした。桜雨の中、ただ立ち尽くして」  五年前?桜……?  何も思い出せない。五年前の桜の時期?  「今にも泣きそうで、見えない涙が零れそうで。抱きしめてあげたいと思うほどでした」  ああ、藤倉に子供が生まれた頃だ。  「お前と会ったのか?」  「何度も会っています、正確には羽山さんが私を見てくれたことはないのですが。いつも遠くを、違うものを見ていましたよね、その儚げな風情に見惚れていました。なぜ羽山さんの事が気になるのかさえわからないまま見つめていました」  「そんな事は知らない」  「ただ私が勝手に見ていただけですから。笑顔が見てみたいと、そう思っていました。一緒に笑いながらあの桜の花を見てみたいと」  同じ街でアルバイトをしていたと言う桜井とすれ違っていたとしてもおかしくない。  「何度もすれ違っていたというのか」  「気づいてさえもらえませんでしたが、何の感情か分かりませんでした。ただ見てほしかった、あなたの目に映ることの許される男になりたいと思っていました」  そんなことを今言われても、応答のしようがない。出会った頃から感じていた視線の意味は桜井の想いだったのだろうか。  「今そんなことを言われても……」  「言うつもりはなかったのです。羽山さんが悪い」  抱きしめられるその腕が熱くて、火傷を負いそうだった。 

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