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第52話 嵐の前の
シャワーを浴びて部屋に戻ると、トーストとコーヒーがテーブルの上に乗っていた。
スクランブルエッグのつもりなのか、卵の残骸のようなものも皿に乗っていた。
「お前本当に何も出来ないんだな、家事は一体誰がやってるんだ?」
その時なぜか、昨晩の御園の言葉が蘇ってきた。「お前、あいつが誰の子なのか知っているのか?」そう言われた、そして桜井の家族の事を何も知らないという事実に気がついた。
今までは桜井の私生活を知らなくても良いと思っていたし、知りたくもないと思っていた。けれども一度引っかかりだすと喉に刺さった魚の骨のように気になってしかたがない。
「今、花婿修業中ですから、そのうちに出来るようになりますよ。もともと九州に居た時は女所帯で台所に入れてさえもらえなかったのです」
「花婿修行って、なんだそれ?」
「言葉の通りですよ。羽山さんが来てくれます?」
「馬鹿かお前」
「約束でしたよね?食事も作りました、今日は一日付き合ってくださいね」
桜井の家族の事を聞きたいと言う気持ちと、知ってしまう事への怖さとを秤にかけている。今までだったら聞かないことを選ぶだろう、それが常に自分自身のためなのだ。桜井が伝えることが必要だと思うのなら話していたはずと、言い聞かせみても納得しない自分がそこにいた。
「ああ、約束だな。ゆっくり話もしたいし」
「話ですか?もちろん、ゆっくり話をするのもいいですね。じゃあ何もしないをして、過ごしませんか?」
「何もしないをする?」
「そうです、特に何かを頑張るのではなく。今日一日ここでゆっくり過ごすだけ、何かをしなくてはいけないと焦るより贅沢ですね」
「約束は約束だ、お前の希望通りにしよう」
「はい」
「じゃあ、まずは朝食ですよね」
少し焼きすぎて水分の抜けてしまったトーストに固まったままのバターを乗せてコーヒーで流し込む。二人向かい合って黙々と食事を済ませる。そして、その時間が決して不快でないことに気がついた。何も話さなくても一緒に居ることのできる相手、この距離が保てる相手はほとんどいないことを知っているだけに、桜井を失いたくないと改めて思っていた。
「羽山さん、コーヒーを持ってきましょうか?」
そのタイミングが絶妙で、こちらを見ていないようで常に気にかけてもらっているという状況が心地よかった。
「桜井、ひとつだけ聞いてもいいか?」
「はい?何ですか?」
「お前の家族の事を……」
「御園さんですか?」
「……」
桜井は小さくため息をつくと、少し困った顔をした。
「できれば、決着つくまで羽山さんには言いたくなかったのですが。他から聞かれても困りますから、聞いてもらえますか?」
「ああ」
コーヒーをマグカップに足すと、壁に背を預けて座り直した。
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