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第53話 晴嵐

 「父の名前は遠峰浩一と言います」  「遠峰って、まさか?」  「はい、そのまさかです。桜井は母方の苗字になります。両親が離婚したのは私が二歳になる前でしたから、正直幼い頃の父親の記憶はありません。再会したのは、都内の大学に通う事になった十八の時でした。それまでも金銭的にはサポートをしてもらっていましたし、何の迷いもなく、父の家にやっかいになることにしました。それ以来です。」  「社長の……そうか、幹部候補生って、そういうことだったのか」  「別に父親が誰だろうと私は私です。何もかわらない、そうでしょう?羽山さんはそんなことで色眼鏡で見たりはしませんよね?」  「父親の会社に入社したというのなら、それは後継者として周囲にも期待されているだろう」  「姓も違いますし、知っている人は殆どいません」  「御園は知っていたよ」  「御園さんから何か聞いたのですか?」  「いや、違う。心配されただけだ」  「心配することは何もありません。何度も言いますが、私にとっては羽山さんが一番です」   ああ、まただ。どうしてこうも面倒な相手ばかりを見つけてしまうのだろう。  「面白くないな。何でしょう、無性に腹が立ちます。父親にはきちんと話をしてそれから羽山さんにも伝えるつもりでした」  「甘いよ、世の中はそんなに単純じゃない」  「羽山さん、私は食事を作りましたよね。約束ですよ、今日はわたしに付き合ってくれるのですよね」  桜井は距離を詰めるとそのまま体重をかけてきた。そして桜井に床に押し倒される形になってしまった。桜井の熱い思いとは裏腹に何故か冷めていた、つと横に顔を向けるとテーブルの脚の一本にくぼみがあるのが見えた。  ああそうだ、藤倉と別れる、別れないと喧嘩した時にあいつが蹴り倒した痕だ。何故か頭は冷静にそんなことを考えていた。  別に抱かれることで愛情を推し量ったことは一度もないし、今まではこちらに押し付けられる愛情が重たかった。けれど、この性急な愛情の押し付けも悪くはないのかもしれないと自分から桜井の首に手をまわして引き寄せた。  「羽山さん、どうしたら追いつけます。あなたの心にどうしたら届きます?」  違う、ただ自分の覚悟が足りないだけだと分かっている。必死にすがる桜井を見つめながらふと可笑しくなった。  「笑わないでください、私は真剣です」  「違うよ、滑稽なのは自分自身だ。俺が全てを忘れるまで溺れさせてくれるか?」  そう伝えると、ゆっくりと目を閉じた。

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