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第57話 群雨

  「羽山さん、今日はここに泊って行ってもいいですか?」  「好きにしろ」  「あの、羽山さん……」  「何?お前の好きにしろと言っているだろう」  「携帯鳴ってますよ」  差し出された携帯電話の画面には「御園」の文字が浮かんでいる。桜井の手の中で振動しているその黒い箱と、桜井の顔とを交互に見る。この電話に出て欲しいのか、それとも出て欲しくないのか。今ここで無視するとかえって変な誤解を招くのではと思う。  「お前が出れば」  導き出した答えは「逃げ」だった、御園も桜井が電話に出れば切るはずだ。  「いえ、これは羽山さん宛ての電話ですので」  桜井は携帯電話を床に置くと、静かに外へと出て行った。  「もしもし、御園?どうした?」  『あ、羽山?どうしても気になってさ、昨日のことだけど。俺、酒が入っていたとはいえ、余計なこと言ったよな』  「桜井のことか?本人から聞いたよ」  『そうか……まあ、俺が余計な事言う立場じゃないよな』  「そんなことはないが、まあ覚悟はできたよ」  『本人たちの事だから余計なお世話だとは分かってたんだが、俺が納得できなくてな。それでも婚約しているなんて他のやつからは聞きたくないよな、悪かったな』  「え……」  『え?』  「あ、いや、何でもない。気にしてくれてありがとう、電話もらえて嬉しかったよ」  『あ、ああ。今度の週末、片づけよろしく頼むよ。肴の美味い店見つけとくから飯も食おう』  電話はすぐに切れた。普通に答えられただろうか、携帯を持つ手が震えている。婚約しているとは聞いていない、桜井の涙、あれは謝罪の涙だったのだろうのか。  ……もうどうでもいい。  桜井が言わないという事は知らなくて良いと言うことだ。だから聞かなかったことにする。後戻りできなくなるのを分かっていて踏み出したのは自分だ。  「羽山さん?もう電話終わりました?」  「あ、ああ」  目の前に立つのはまだ若い青年、自分とは違う。そうだった、相手は十も年下の子どもだった。十年前の自分は将来を考えて不安になることもなかった。そう、桜井と自分は違うのだ。  「そうだ、桜井、少し買い物にでも出かけないか?」  二人だけでこの部屋にいれば余計なことを責めてしまいそうだ。大丈夫、自分の存在価値が否定されたわけではない。好きだと言ってくれた、それだけで十分だ、それを幸せなことだと思わなくてどうするのだ。    「ええ、いいですよ。何か必要なものでも?」  「御園の引っ越し祝いをね、一緒に選んでくれないか?来週部屋の片づけの手伝いをすることになってるんだ」  「え?羽山さんがですか?」  「何?お前も行きたいの?」  少し笑うと、つられたように桜井が笑う。その顔は、何かほっとしたような顔にも見えた。  「いいえ、さすがに。そこまで図々しくはないです。けれど、夜は迎えに行きます。それくらいは良いですか?」  「んー?バイクだろ?飲んだ後には嫌だな。タクシーで帰るよ、大丈夫」  桜井は少し残念そうな顔をしたが「では帰る前に電話をください。ここで待っています」と笑った。

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