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第58話 逆さ川

 気が付かなかったが、(にわ)か雨でも降ったようだ、湿ったアスファルトが強い日差しに照らされていた。吹く風が、その湿気を帯びて少し生暖かい。その埃を軽く洗い流したような風の匂いが懐かしく感じて、胸が苦しくなった。雨や風にも匂いや温度があり、それが過去の思い出を引っ張り出す。  この感覚は、高校の時梅雨明けの時期。学校の渡り廊下を吹き抜けた風だ。  「ああ、この風……」  「え?風ですか?」  「いや、何でもない」  思い出したのは藤倉と過ごした日々、そして踏ん切りをつけた日の朝のことだ。これで最後と決めた日、その朝の雨の記憶。苦しかった、そして悔しかった記憶だった。  「どこへ行きますか?」  「んー、酒でいいかなと」  「じゃあ、酒のグラスを付けてはいかがでしょうか」  そう言われて、あの部屋にあった埃だらけのグラスを思い出した。あの食器の数ではまともなものは殆どなさそうだ。  「そうだな、そうするか」  日曜日に電車に乗ること自体が珍しい。それより誰かと一緒に出掛けることなど今までなかった。自分の恋愛を誰に恥じる事もないと思っていたが、藤倉との付き合いは表に出すわけにはいかない恋愛だった。学生の時は互いの自宅で、社会人になってからはホテル以外の場所で会うことはなかった。ましてやどこかへ一緒に出かけることなどありえなかった。  桜井と歩きながら不思議な気持ちになった、まるで日々の暮らしの中に桜井がいるようだ。特別な時間ではなくて、日常に紛れて一緒に居れる。こんな穏やかな時間を失くしたくない。  ただ、桜井はまだ知らない。思っているよりも人生は思い通りにならないと言うことを。親兄弟はそう簡単に切り捨てられる存在ではないという事を。自分自身への戒めとして、忘れていた過去を反芻する。ぼんやりと過去の記憶をたどっていたら、桜井にぐいと腕を引かれた。  「羽山さん、どうぞ」  電車に乗るとすぐに、空いた席を見つけたようで座らせようとしてきた。  「いや、いい」  「立っているの辛くないですか?」  暗に先ほどの行為をさして言われているような気がして、意地でも座るかと思う。「お前のそういう素直じゃないところが駄目なんだよな」そう藤倉に言われたことを思い出す。どういうわけか今日は藤倉の事が頭から離れない。別に会いたいと言うわけではないのに。  自分の中にある制御機能が働いている。社会の決めた「普通」から外れると、排除される存在になる。そんな思いは桜井はしなくてもいいはずなのだと。「お前、もう少し自己肯定してやれよ」そう言って藤倉は笑っていた。けれど、藤倉は今は家庭を得、生活も得た。そこに邪魔なのは自分だったのは間違いない。  「桜井」  「はい?」  「来週末なんだど」  「ああ、御園さんの片付けの件ですか?私は待っていますよ」  「んーー、苦手なんだ。先の約束はしたくない。互いの時間が合えばでいいんじゃないかな」  「どういう意味ですか?私が待つのが迷惑ですか?」  「いや、連絡をしなくてはいけない。会わなくてはいけないって思いたくないし。思わせたくない」  そう、会える瞬間だけでいい。別れる覚悟はできないから、会える時だけの都合のいい相手が一番いい。自分でもいらいらするような感情の波の中、行く先が見えない航海をしている。

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