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第67話 仮初めの

 「好きです」と繰り返され、安売りされる言葉に追い詰められる。いつもと違う、自分の心の内をさらけ出した瞬間から何かが違う。そして、桜井もいつもより熱い。ねじ込まれるその想いが体を貫いて、心も体も引き裂かれてしまいそうだ。  「さくらい」  「はい」  伸ばした手を指を絡めるようにして握られた、そして優しく指の間をなぞられる。触れられるところ全てが熱源となり体温を上昇させる。  「あ、つい」  「羽山さんが熱いのですよ」  分かっている。好きだとか、一生一緒にだとか、言葉として聞いてしまうとその言葉にすがってしまう自分がいることを。一度表に出してしまった鬼が足元から這い上がってくる。傷つきたくないと思っていても現実はそこまで甘くはないのだ。ただ今だけは、桜井の気持ちが嬉しいと思っていた。  「あ…あっ……い」  「羽山さん、好きです」  言葉が耳から脳を犯す。息を止めてはいないのに酸素が足りない、意識が遠くなりそうだ。逃げようとする身体を引き留められてさらに奥へと届くその熱に、身体が焼けて焦げて、灰になってしまえばいいのにと思う。足もとには醜い鬼がいて、笑いながらこっちを見ている。喰らい尽くされるなら、それでもいいと思いながら、目を閉じて感覚だけを追いかけて昇りつめていった。    波が去ると冷静に物事が見えるようになる。現実問題として自分の存在が、今後の桜井のプラスになるとは思えない。そして、このままだと自分は会社を去ることになる。  「婚約は……」  「気になりますか?大丈夫です断ります」  「……いや違う。もう十分だから」  「本当に断りますから、何なら今ここで父に電話を入れます」  「止めておけ、もういい。それより今は違うものが足りない」  自分から男を誘うことなど一生無いと思っていた。去ったばかりの情欲が戻ってくる。足りないのだ、どうしても桜井が欲しい。既に乱れているシャツのボタンをひとつ、またひとつとゆっくりと外す。桜井の喉仏がゆっくりと上下するのが見えた。煽情的な瞳をして、こちらの手の動きを追う桜井をみて満足する。求められている、それだけが今の自分の価値のような気さえしてくる。  「羽山さん」  だんだんと速くなる呼吸の音、それだけしかない狭い空間の中。誰も他に入れないこの場所は安心していられる、今ここでは桜井と自分以外誰も存在しない世界。  「桜井、何をしている?早く……」  手を伸ばし、桜井の手を取る。ゆっくりと後ろへと身体を倒し、桜井の重さを受け止めようやく安心した。ああこの瞬間(とき)今ここにいる、ただそのことだけが嬉しかった。  

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