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第68話 こちふかば

 重い扉をゆっくりと押す。物理的に重いのか、自分の気持ちが重さを乗せているのか分からない。思っていたより連絡は早かった桜井の事だ婚約破棄を本当に切り出したのだろう、そして……。  「羽山君だね?」  「はい」  「なぜここに君が呼ばれたのかがわかるかね?」    「いいえ、どう言ったご要件でしょうか」  「そうか」  一時間前、部長から会議室に呼び出された。時間が空いたらすぐに社長室に向かうようにとそれだけの指示を受けた。怪訝な顔をし、会議室だというのに声を落として囁くように聞いてきた。  「羽山、何があったんだ?」  「いえ、ご心配には及びません」  「しかし、社長から直々に呼び出しがかかるってのは前例がなくてな。いいニュースなのか、悪い知らせなのか」  前例があるわけがない、思っていたより早く社長の耳に入ったという事だ。桜井からはあの日自宅に戻ってから連絡はない。  「業務上支障がなければ、直ぐに本社ビルへ向かいますが」  「問題ない、行ってこい。気になって落ち着かないよ」  そして今、普段は表に出てこない、重い扉の向こうにいる男と対峙する事になっているのだ。  「君に直に会って話がしたくてね」  狸だな、桜井のことには一切触れないつもりだろう。そして応接セットのテーブルの上にこれ見よがしに広げらているのは、隠し撮りされた写真の数々。  桜井が父親に話す前に、既にいろいろな事が裏で動いていたらしい。写真には御園に手を引かれ薄暗い住宅街を歩く写真、アパートの下に停められた桜井のバイクの写真、そして藤倉の写真、ここにあるとは想像だにしなかった写真が何枚もある。  「もちろん我が社も時代の流れを鑑みてグローバル企業としての判断をしなくてはならない。しかし、父親としての判断はそことは違うと思わないか?君はどう考える」  「履いてみたことのない靴の履き心地など、想像にしか過ぎません」  「確かに、君に聞くのはお門違いか。さて、ここから仕事の話だ。年明け直ぐにニューヨーク支店の営業として赴任してもらうことになる。他にも新年には移動があるだろう。もう戻りなさい、忙しいのに無理に来てもらってすまなかったね」  執行猶予三ヶ月、そこで強制終了ということだ。退社すると言う選択肢が示されると思っていたがそれは無かった。自分の目の届くところ、制御できるところに置くのだろう。他の移動とは桜井の事だと暗に示された。(さざなみ)が立つ。  「失礼いたします」  互いに何も肝心なことは言わない。社長から直々に移動の内示を渡された社員もいないだろう、これも前例のないことだろうなと冷静に考えながらオフィスへと戻った。

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