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第72話 しのぶれど

 「おはようございます」  翌朝、無駄に明るい笑顔を貼り付けた桜井がやって来た。部長が顔を上げ声をかける。  「お、桜井か。珍しいな、元気か?」  「ええ、ご無沙汰して申し訳ありません。皆さんお久しぶりです、お元気ですか?」  こちらへ目を寄こして、ゆっくりと区切るように話すその言葉は昨晩の行動への当てつけだろうか。  「朝からすみません。新規顧客のデータで少し不明なところがございまして、山王商事はどなたのご担当でしょうか?」  「山王商事か?羽山、お前が担当だろう。その件は羽山に聞いてくれるか?」  「ああ、そうですか?でしたら会議室少々お借りできますか?提出されたデータとホームページのデータが少し違っているようですので、詳細を確認させていただきたいので」  「構わないよ、第二会議室が午前中は空いてたはずだ」  部長の声にファイルを手にし、渋々と立ち上がる。  「こちらへどうぞ、桜井さん」  後をついて入ってきた桜井は、会議室の扉を後ろ手に閉めると同時に距離をつめてきた。  「で?何の確認、俺は間違ったデータは提出していないはずだが」  「ええ、何も問題はありません。羽山さんを逃がさずに確実に話をする場所を考えた末です」  「またったく、偉そうなことを言っておいて。お前こそ公私混同だろう」    「すみません、何を言われても反論できません」そう開き直った桜井は座る様子もなくさらに距離をつめてくる。  いくら相手が桜井とはいえ、昼間の会議室でのこの距離には違和感しか覚えない。  「で?本当は何が用事なんだ」  一歩下がると、先に椅子に座る。手で椅子を差し座るようにと促したつもりだが、桜井はその場所から動きもしない。  「御園さんからは連絡はありましたか?」  「は?あいつのあれは冗談だろう」  「本当に冗談でしたら良いのですが。羽山さん、ガード緩すぎます」  「余計なお世話だ。それより会社でする話じゃない、少しは考えろ」  「残された時間が少ないので、必死です。今日の夜は会ってもらえますか?」  「駄目だと言えば、退くのか?」  「マンションの鍵と住所です、これを渡すために来ました。遅くなります、先に帰って待っていてください。それでは、私の用件は済みましたので、失礼致します」  頭を下げると、鍵と紙に書かれた住所を置いて桜井は出て行った。会議室の外から部長に挨拶する桜井の声が聞こえる。呆れるようなその行とは自分へと向けられた好意なのだ。    「あいつは……馬鹿なのか?」  指先で鍵をくるり、くるりと回す。住所の書かれた紙を一度開き、その文字を指先で辿った。その紙の真ん中に鍵置き、鍵を包んでポケットへとしまう。  ふと自分の頬が緩んでいることに気がついた。  「俺もまんざらじゃないらしい」  静かに会議室を出るとデスクへと戻った。

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