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第78話 紅葉

 「ただいま」  部屋のドアを開けた時に桜井がなぜか凍り付いて動きを止めた。  「えっ?い、今……」  「なに?」  「羽山さん、もう一回っ。ドア開けるところからお願いします!」  「は?何を言っているんだ。この寒いのに一体何をさせる気だ」  「羽山さんが、ただいまって……。ただいまと言ってくれたんですよ。その瞬間お帰りなさいと言うべきだったのに、嬉しすぎて、驚きすぎて答えられまんでした。私としたことが、あり得ません」  「……」  あまりの桜井の必死さに、一瞬外に出るべきかと考えてしまった。そんな自分がいることに驚いて「くっ」と小さく笑い声が出た。  「何かおかしいですか?」  少しがっかりした桜井の顔を見ながら靴を脱ぐと部屋に上がる。  「何かいい匂いするけど、何を作ったんだ?」  「ああ、これですね。鍋ならば具材を切って入れるだけですし、私にも出来るはずと思って、調べて作りました」  「わざわざ調べたのか?で、その真っ赤なのが……」  「トマト鍋です。綺麗ですよね、紅葉みたいな色で」と言う。食べたこともないものに対してはどうしても少し用心深くなる。できれば、普通の寄せ鍋でいいのではと思うのだが嬉しそうな桜井に文句も言えない。とりあえず食事をするために、ジャケットを脱ぎネクタイを外しハンガーを探す。そういえば、寝室の壁側にフックとハンガーがあったと思い出しドアを開けた。そして、そこにある荷物を見て呆れかえった。  「お前……これ」  「はい?」  「スーツを一着だけ取ってくるはずだったよな」  「スーツ一着とは言っていませんよ。とりあえずスーツ取ってきますとは言いましたけれど。羽山さんは強行突破じゃないと動かせませんから」  「何が強行突破だ。お前、俺の部屋の荷物ほとんど運んだだろう!」  「ほとんどですかね?あ、夏物は置いてきましたよ。ですからそれ以外の必要なものは、出来る限り持ってきました、というのが正しいですね。そういえばこの鍋も羽山さんのところからお借りしてきました」  そう言われれば、テーブルに乗っている土鍋は確かに見覚えのあるものだった。ここ何年も人と食事をしたことがなかったからシンク下のキャビネットの奥にしまってあったはずだ。  「お前……」  「ちなみにこのカセットコンロもです。食器や調理器具は新しく買うより有効活用ですよね。あの羽山さんお気に入りのファイヤーキングのマグも、もちろん持ってきましたから大丈夫ですよ」  「大丈夫って、意味が違うだろう」  「え?これは要りませんでした?」  とぼけた答えにもう反論するのも馬鹿馬鹿しくなってしまう。  「飯、食うから」  椅子に座ると嬉々として桜井が箸と器を手渡してきた。ついこの前まで自宅で使っていた食器はどうやら全てここへ運ばれたらしい。そして、どんな味だかと不安になりながら箸をつけたトマト鍋は予想に反して美味かった。

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