81 / 86

第81話 暁

 もともと人との距離が近いと呼吸するのさえ苦しくなる。早い時間に通勤するのは混雑した電車に乗ることが苦痛だからだ。他人との近すぎる距離に吐きたくなる時がある。自分が落ち着いて呼吸の出来る距離が欲しいのだ。  知らない人の匂いは恐怖さえ産む。強い香水の香りはもう暴力だ。そばに寄られるだけで、一歩下がってしまう。匂いだけではない、話し方や視線までが何故か棘を持って見える時がある。  ある程度の距離を取って接してくれれば、そしてこちらの内面に隠れている怖がりの自分に無関心でいてくれれば、一番ありがたい。こうやって人と深くかかわるのが苦手になってきたのはいつの頃からだっただろう。  「羽山さん?どうしたのですか?」  「いや」  「さっきからこちらをずっと見ていますよね」  「見てはいない、眺めて感心しているところだ」  「何をですか?」  「いや、馬鹿なことをしたなと」  「今日の有給のことですか?」  「ふははは」  「何がそんなに可笑しいのですか?声を立てて笑うほどのことありました?」  「馬鹿なのはお互い様か」  理解できない振りをしているのだろう桜井を可愛いと思う自分がいる。そして桜井のいるこの距離が決して不快でなく、心地よいことに驚いている。  立ち上がった時に桜井が距離を詰めてきた。ああそうか、こいつとの距離を縮めたかったのは自分かと今更ながらに気が付く。桜井のシャツの胸元を掴み強く手前に引いた。  「馬鹿同士よろしくな」  「はい、もちろんです。あの……荷物の前に」  「はぁ?」  桜井の手が背中に回り下履きの中に入ってきた。その手をぴしゃりと叩く。  「誰が調子に乗って良いと言った?」  「やっぱり、そうですよね……」  少し調子に乗せてやっても良かったかと思うくらいにはこの男が気に入っている。けれどこうやって手放せなくなって後で、取り上げられるかもしれないのだ。そう考えると、胸が締め付けられるようだ。  「後でな。それより明るいうちに全部終わらせたい、行くぞ」  「あっ、はい」  まるで一緒に営業に出ていたときのように、跳ね上がり先に玄関へと向かうその姿を目で追う。ああ、やはり絆されてしまっている。もうとうに手放せないところにいたのだ。  「ドア開けて待つの止めろ、俺は上司じゃない」  「え?恋人ですから当然ですよ」  もう心は決まっている。正直にその心に従うだけだ。  「車にしてくれ、バイクは怖くてかなわない」  「はい、また暖かい季節になったらぜひ。この時期は寒すぎますしね」  ほんの少しの贅沢とわがままを自分に許してやろうと思う。そして、何よりも自分に正直に生きると改めて誓った。桜井がこじ開けた扉から差し込む暁の色が心の隅まで照らしていた。    

ともだちにシェアしよう!