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第82話 あけぼの
朝目覚める、会社へと向かう人の波にのまれる。桜井のマンションから会社までは地下鉄で三十分もからならい、食事くらい一緒にと騒ぐ桜井を置いて先に出る。
「お前本社ビルだろ」
「途中までは一緒です。それに、食事はそれとは関係ありませんよね?」
「だから、混雑が嫌いだと言っているだろう」
毎朝この会話をしているが、桜井は納得しない。「一緒に、一緒にと、」まるで呪文のように唱える。「そのうちに」と切り捨てて先に出る。玄関を出る時に、後ろからかけられる声に頬が緩む、こんなくだらない些細なやり取りが楽しい。
穏やかな日々がただ長く続くような気がしてくる。桜井は全てが片付いたと思ってはいないだろうが、何も聞いてはこない。そして……聞かれないことを良いことに何の話もしない自分がいる。
満たされていると気がついてしまった。振り返るとそこに桜井の居る空間が心地いい、このまま続けばと思い始めている。
仕事を終えて地下鉄の入り口に向かうのに違和感があったのは、ほんの数日だけだった。三日目にはもう当たり前のように帰路についていた。
帰宅時間はほぼ同じになる。だから地下鉄で偶然会うこともある。目が合うと嬉しそうにこちらに近寄ってこようとする桜井を目で制する。慌てて立ち上がりかけて、それよりもさらに慌てて、また椅子に腰を下ろす桜井を見て表情が崩れるのを隠せない。
今日もいつものように地下鉄の改札を出ると桜井が笑顔で少しずつ距離を詰めてきた。
「あの羽山さん、おかえりなさい。もうすぐクリスマスですよね」
「あ、お疲れ様」
桜井に言われてふと思いだす、もう十二月も半ばだ。桜井はそろそろ親に答えを求められるのだろう。この先のことは考えたくないと言ってもいられなくなったのか。
「そうだ桜井、正月は実家へ帰れよ」
「はい、顔は出すつもりです。そんなことより、クリスマスなのですが」
「そんな事って……普通に仕事だ、月曜だろうが」
「それはそうなのですが、できればクリスマスイブ一緒にお祝いしたいと思っていますがどうですか?」
「祝うって何を?」
「イベントごとって相手がいないと出来ないですよね。そして今相手がいるのですから、一緒にいること祝いませんか?」
「悪いが俺は仏教徒だ」
「どうしてそう、可愛くない答え方しか出来ないんですか?」
ひねくれた大人のつもりは無いが、「かわいく」ありたいと思ったことは一度もない。ましてや年下の男に甘えるような神経も持ち合わせてはいない。
「酒を飲むのならいつでも付き合う、ただクリスマスだと浮かれるのはごめん被る」
「あ、じゃあ食事に行きましょう」
懲りない男はどうあってもクリスマスを祝うらしい。別に週末に食事に行くくらいなら問題ないかと「まあ食事なら」と答えた一言に桜井は小さく手をぐっと握り嬉しそうに笑った。
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