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第83話 花弁雪
「それで、お前あの若いのはどうするんだ?」
「どうするって、どうもするもしないもないだろう。会社の辞令が出た、俺はそれを受けた。それだけのことだ」
「馬鹿を言うな、お前はまた諦めるつもりか」
「お前がそれを言うのか?面白いな。違うな、諦めたんじゃないな」
「どういう事だ?」
「相手に合わせることはもうしない。あいつもやりたいようにすればいい、そう思っただけだよ」
「一稀、それは俺の所為なのか」
首を振って否定する。
「お前は、俺がお前に縛られて生きているのと思っていたのか?」
「いや、すまん、そんなつもりはないが。あの若いのは特別なのかと思っていたのだが」
「……ああ、多分そうだろうな。だから置いていく、あいつの未来はあいつが決めればいい。それが俺の明日とつながってるかどうかは、あいつ次第だ」
毎年のように正月公演のチケットが届いていた、今年はもうこいつの舞台を見ることもないと思っていたが。いつもより数日遅れて、桜井のマンションに他の手紙と一緒に転送されてきた。今年もいつものように舞台に立つ元恋人を眺めた。見目麗しいとはこういう男のことだろう。年老いたと本人は言うが、その匂い立つような色気は若い頃には無かったものだ。
「今日は来てくれ嬉しかった、もう来てはくれないと思っていたよ」
「渡米する前に一度は会いたいと思っていたし、舞台も楽しみにしていたから。チケットありがとう」
「……しばらくは会えないという事だな」
「ん、しばらくは会えない。けれどまたいつかお前の一ファンとして会いに来るよ」
「そうか、ファンとしてか。なあ……もしも」
言葉を継ごうとした藤倉の顔の前に手を広げてその先を制した。藤倉はふっと笑うとそれで全てを察したように頷いた。
「一稀、いや羽山、元気でな。知らせが無いのは元気でやっている証ととらえておくよ」
「ああ、アメリカ公演でもあれば酒瓶を抱えて馳せ参じるよ」
これで日本でのすべての行事は終わりになった。桜井と一緒に過ごすのは、マンションに移ると決めた時からこの渡米までの短い時間だと考えていた。
夏物の衣類や持って行きたい本は既に梱包して業者に預けてある。桜井は荷物を片付ける様子を見ても、何も言わなかった。勘の鋭いやつのことだから、気づいていたのだろう。
外は雪が降っているようだ。楽屋を後にし、劇場の裏口から出ると凍てつく冬の外気が襟や袖の隙間から流れ込んできた。
「寒いな」
そう独り言ちる。
「外で待っている方が寒かったですよ」
いきなり斜め後ろから声をかけられ驚いて振り返ると、鼻の頭をまっかにした桜井が笑っていた。
「お前、なんでここに」
「え、何でって聞きます?恋人が迎えに来たらありがとうで良いんです」
「ああ、ありがとう」
花弁のような雪がふわりふわりと舞い落ちて、桜井はその中で満足そうに笑っていた。
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