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第10話 side棗
眠る帛紗の顔を見つめる。自身の暴挙を振り返り、後悔が胸を蝕んだ。上気した帛紗の肌も、欲求に素直な濡れる瞳も、焦がれて止まないものだった。それらはすべて時間をかけて確実に手に入れる算段だったというのに、迂闊にも手を出してしまった。
見たことも無いような可愛い顔で、織部を好きだと言った綿紗に嫉妬から来る苛立ちをおさえられなかったのだ。
帛紗を初めて目にしたのは大学に入学した当初のことだ。新入生歓迎会やらサークル勧誘やらで、言い寄ってくる女たちを面倒に感じていた時、後ろから声を掛けられた。
すみません、と呼びかける高い声に、またか、と内心ため息をついて振り返った。案の定可愛いらしい顔立ちの背の低い人物がこちらを見上げていた。最初は本当に女だと思ったが、すぐに違うと気がついた。
その人物が帛紗だった。
帛紗は手にした財布を掲げて「これお兄さんのですか?」と口を開いた。財布は俺の物ではなかった。しかし、男にしては可愛い帛紗の顔にみとれ、すぐに返答をできずにいた。
その時、少し前を歩いていた男が「俺のです!」と声をあげながら駆け寄ってきた。帛紗はすぐに男の方に走り去ってしまい、それ以上、その場で帛紗と話すことはなかった。
ただ、財布を受け取る男を見て、良かったと安心したように笑う帛紗の顔から目が離せなかった。
あの時追いかけて声を掛けていれば、財布を落としたのが俺ならば、と後から何度も考えたが、当然ながら過去に帰着できるはずもない。とにかく、それから俺はことあるごとに帛紗を目で追って、接触の機会を模索した。
入学当初のあの出会いは俺にとっては印象的だったが、帛紗にとっては記憶するに値しない事象だったようだ。学内ですれ違っても目が合うことはなく、話しかけるタイミングを幾度となく逃し続けた。
誰かと嬉しそうに話す横顔や、歩く後ろ姿ばかりを毎日見つめ続けた。こちらを向いて笑って欲しいと、慕情を募らせ続けた。逸る気持ちとはウラハラに体は動き出せないままだった。
なんでもない相手なら易々とこなせる課題が帛紗を相手にするとどうにも上手くいかないのだ。そうして2年近く一方的に観察する日々を過ごし、ようやく俺は帛紗のお人好しという特徴を利用することを思いついた。
時刻は火曜の昼過ぎ、3限が空きコマの帛紗はほぼ毎週、学食で遅めの昼食をとる。その時間を利用して、動画撮影の協力を依頼した。
正確に言えば、動画撮影に協力してもらうフリをした。帛紗に怪しまれないよう、最低限の仲間を連れて撮影を装った。仲間にはサブアカウント投稿用だと伝え、適当な大食い企画を手伝わせた。
その実、俺は食事よりも画角よりもライティングよりも何よりも、帛紗の反応を気にしていた。
やはりお人好しな帛紗は依頼すれば断ることはしなかった。昼食を終えてゆっくりしたいだろうに朗らかな可愛い笑顔で協力してくれた帛紗に、俺はますます惚れ込んだ。
その時の映像に残る俺のニヤけた顔は我ながら気持ち悪かった。それもあり、あの映像は結局編集もせずにただひとりで見返しては帛紗のことを思っている。
それからも偶然を装って度々帛紗に動画撮影の協力をしてもらい、友達の称号を獲得することに成功した。
そこまでは良かった。なんだかんだと身の回りの世話をしてもらい、帛紗の上手い飯も食える環境を搾取した。知り合って2年、大学卒業を機に通い妻をさせて2年、帛紗の俺に対する好意を感じたから、ついには同棲にだって持ちこんだというのに。
事実上の婚姻関係を築いても、まだまだ甘かった。時折向けられる視線に恋情が孕まれていたと感じたのは勘違いだったようだ。
「…っ、織部のやつっ!!!」
帛紗が織部と懇意にしていることには気づいていた。だが、帛紗が織部に恋情を寄せているということにはまるで気がつかなかった。
学生の頃、帛紗が強姦にあいかけた時、そばに居たのは織部であり、それから帛紗を精神的に支えたのも織部だった。ふたりはそれ以前から仲が良かったが、事件以降は特に、帛紗は織部に頼っている様だった。
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