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第19話
使っていた部屋は掃除し終えた。既に荷物もひとつにまとめてある。昨晩残ったご飯も1人前ずつまとめて冷蔵庫に入れた。朝食だって用意した。
昨晩、夕飯を食べながら棗に直接話そうと思っていたが、結局、口に出して話すことが出来なかった。
これまでだってこれからだって、ずっと棗を思っているし、支えていきたい。出来ることなら1番近くで、1番役にたつ形で支えていたい。
けれど、棗は僕じゃないひとを選んだ。
だから、そばで支えるのは今日で終わりだ。
最後に今までありがとうと書き置きをして部屋を出た。
優しい棗は心配してくれるかもしれない。本当ならこれまでの食費や生活費をちゃんと返すべきなんだろうし、今後僕がどうするのかも伝えるべきなんだろう。
でも僕は棗から直接別れを告げられることが怖かった。だから逃げ出してしまったんだ。
昨日棗は家に帰って来たときから、ずっと何かを話したそうにしていた。きっと伊万里くんのことを言おうとしていた。
棗は僕に気を使ってなかなか切り出せなかったんだろう。1番好きなものを聞いたときも上手くはぐらかされてしまった。
いつも美味いと言って食べてくれていた料理も、本当はあまり好きではなかったのかも知れない。プロの伊万里くんが作る料理に比べれば、当然だろう。
受け入れたくはないが、諦めなければならない。
棗の1番は伊万里くんなんだ。
そして僕は、一日中ぐるぐると棗のことを考え続けた。棗の家を出たのは早朝だったというのに、気がつけば辺りは暗闇に包まれていた。
電車に乗って、ひたすら遠くへ、そうしてたどり着いた場所だから、今ここがどこなのかも分からない。
最終停車の海辺の駅に降りたって、外灯ひとつない道を歩いた。
波の音だけが響く世界で、頭に浮かぶのは棗のことばかりだ。
出会った時の眩しい笑顔も、僕をメンバーに誘ってくれた時の優しい声も、寝不足の疲れた横顔も、メンバーと連れ立って歩く後ろ姿も、画面の向こうのモデルみたいな立ち姿だって、僕のつくったご飯を食べて喜んでくれるところも、抱いてくれた時のあの熱も、汗のにおいだって、切なく微笑む顔だって、
好きで好きでたまらない。
好きだよ、棗。
好きだ。
けれど、もう、
さよなら。
棗。
頬に当たる冷たい風をよりいっそう冷たく感じた。手を当てると、涙で濡れているんだと気がついた。
砂浜に座り、ひとしきり嗚咽した。
この日僕は涙は無限ではないのだと知った。
風に撫でられ乾いた頬を、手で拭った。
泣いたせいか、潮風のせいか、しょっぱさが鼻を抜け、沈んだ気持ちにそぐわない間抜けさになんだか笑ってしまった。
幾分か落ち着いて、もう一度歩きはじめた僕は、しばらくしてネットカフェを見つけた。
失恋して泣きふせっても現実は変わらない。明日になれば仕事にだっていかなくちゃいけない。妙に覚めた頭で、今晩はここで眠ろうと決めた。
だるい体を引きずって、個室に入った。
疲れているのに眠れなくて、つけっぱなしだったPC画面を見ると、トップページにはオススメアクティビティが表示されていた。
ちょうどポップは動画サイト紹介ページに切り替わり、急上昇中のチャンネルが表れた。
偶然にも、表示されたのはナツメグぱんだの動画だった。
今日投稿された動画ということは、ちょうど伊万里くんがあのスタジオで働き出した頃に制作したものだ。
彼の存在が棗だけでなくメンバーにもいい影響を与えたんだと思うと、悔しさよりも尊敬の念を抱いた。
引き寄せられるようにポップをクリックし、棗たちの作った動画を見る。
こうして見ると、ナツメグぱんだのメンバーたちはまるで別人だった。
気がつけば僕は純粋に動画を楽しんでいて、失恋した相手に励まされるという皮肉な状況になってしまった。
やっぱり、棗の作るものは素敵なものだ。
諦めなければいけないというのに、僕は余計に棗を好きになってしまった。
そして僕は、ナツメグぱんだの投稿動画を見返して夜を明かしたのだった。
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