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第20話 side棗

帛紗がいなくなった。 頭が真っ白で何も考えられない。 帛紗がいない。 いつもなら、キッチンに立って朝食を作っていて、俺に気づいてこっちを向いておはようと笑ってくれて、それだけで俺は幸せで。 なのに今、キッチンどころか寝室にもリビングにも、この家のどこにも帛紗の気配がない。 静まり返った部屋の外からチュンチュンと気の抜けた鳥の鳴き声が響いているだけだ。 ダイニングテーブルには今までありがとうと書置きが一枚置かれていた。 何故。 帛紗はどこに行ったんだろうか。 何をしているんだろうか。 何があったんだろうか。 やはり昨日、無理やりにでも話を聞いておくべきだった。 あり得ない。考えられない。帛紗のいない生活なんて絶対になしだ。 俺はすぐさま動き出した。 帛紗の行く当てがあるとすれば、最近会っていた人物、織部だ。 そう思って連絡を取ったが、帛紗は織部のもとにはいなかった。 「帛紗、何て言ってたんだ?」 「お前が浮気した相手に家を出てけって言われたって。話さなかったのか?」 「は?浮気?俺が?」 全く理解ができなかった。帛紗が出ていく理由を考えて織部に思い至ったとき、てっきり帛紗は織部に俺とはなんともないとアピールをしたくて家を出ていったんじゃないかと思った。 けれど違った。 帛紗とは浮気どころか付き合ってすらいないのに、一体どういうことだろうか。 「動画作るの、手伝えねぇのが辛いって。新しい人が来るなら自分は出てったほうがいいって言ってたぞ。」 非常に衝撃的だった。 今まで帛紗は何も言わなかったし、動画の制作も、家事も何も、俺が頼んだから優しい帛紗がやってくれているものだとばかり思っていた。 だって、でも、浮気とか、新しい人が来るなら出ていくとか、帛紗がいなくなったのは俺のためなのか? でも、ただ、それだと、 それは、まるで、 「そんなの、帛紗が俺のこと好きみたいじゃん。」 数秒の沈黙、時が静止したのかと思うほどの間の後、織部が間抜けな声を出した。 「は?」 これ以上ないほどの呆れ顔が電話越しに見えた気がした。 「いまさら何言ってんだよ。」 何言ってんだよ、は俺の台詞だ。帛紗が好きなのは織部だろう? 「織部こそ何言ってんだよ。」 だって帛紗は好きだと言っていた。 「帛紗、棗に会ったときにちゃんと話すって言ってたぞ。」 そうだ、織部と会っていたんだと、ずっと言いたかった、と。 「お前ら思いあってるくせに全然思ってること言いあわねぇし。」 だから問いただした。 「帛紗は織部のことが好きなんじゃないのか?」 何故、織部と会っていたのか問いただした。 「帛紗は、織部と会ってたって、だから、理由をきいて、」 そしたら、好きだって、 「棗が浮気するかもしんないって相談に乗ってたんだよ。だから、そんな心配する前に、ちゃんと思ってること棗に話せって言ったんだ。」 あれ?え?何言ってるんだ? 本当に、帛紗の好きな相手は俺なのか? 信じられなくて思わず声に出した。 「帛紗は俺が好きなのか?」 電話の向こうで、意味が分からないというように織部が声をあげた。 「他に誰がいるんだよ。」 俺はこれまでのことを思い返した。 あの美味い食事も、お帰りと笑う笑顔も、好きな人に捧げれば嫌な記憶も消えるんだと言っていた身体も、好きという言葉も、俺に向けられた言葉だった? そう思っただけで、歓喜に体が震えた。 過去のことを思い返して合点がいく。 やはり、向けられていたあの視線は俺への恋情が含まれていたのか。 やっと気が付いた。 そうか、帛紗は俺が好きなのか。

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