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第玖話

 領主という自分の置かれた立場を自覚しているからこそ、どこの誰かもわからない素性の知れない男を傍に置くことの危険性がわからない訳ではなかった。皆が意地悪で反対しているのではない事も、充分に理解している。  きっとこの世の中では、その選択が正しいだろうことさえわかった上で、それでも秋良は男を拾う事を迷わなかった。 「誰に与えられるでもなく、自分の意思だけで手に入れると決めた。俺にとって孝則は最初で最後の、たったひとつの我儘だったんだ」  後に当初助けられる事を望んでいなかった孝則から、何故助けたのかと問われた時、それは自分の我儘だと言い切った。  お前はただ俺の我儘に付き合わされただけなのだと笑うと、「それならば仕方ありません」そう言って死ぬ事を諦めたように頷いた孝則の姿に、秋良は自分の判断が間違っていなかった事を知る。  生まれた環境にも、それによって決められた自分の人生にも、不満を抱いた事は無かった。選択肢のない未来は、この世の中では普通に蔓延っている事だったから。  むしろ自分で行き先を決められる人間の方が遙かに少ない時代だった。低い身分に生まれた者達と比べれば、格段に幸せな人生なのだろうとは思う。何一つ自分で決めることが出来なくても、飢えて死ぬこともぼろ雑巾のように使い捨てられることもない。  けれど不自由なく生きていけるからといって不満がない訳ではない。この状況に甘んじていたくはないし、切り開けるものならば自分の力で未来を掴み取りたいと思っていた。誰かに引かれた線の上でも、せめて自分なりの一刺し位はあってもいい。  仕えてくれる家臣に、文句があったわけではなかったし、皆まだ未熟な自分を支える為に惜しまず力を貸してくれている事は十分に伝わっていた。けれど、もし自分に何もなくなったら? 親も与えられた地位も、全部がなかったら?  秋良を秋良個人として見てくれている者はどれだけいるのだろう。何もかも失っても、ただ傍に居てくれる友人と呼べる人物は、どれだけいるのだろう。  仲の良い幼馴染は数人いる。でもそれは、幼い頃から自分に仕え良き右腕となるようにと、いずれは一番の家臣になるようにと、やはり与えられた者達。もちろんとても大切な友人ではあるのだけれど、自分で手に入れた不動のものかと言われると自信は薄れる。  秋良に何もなくなっても、ついて来てくれるかもしれない。でも、ついて来てくれないかもしれない。そんな関係。  相手にだって人生はあるし、幸せに生きて行く権利がある。だから離れて行く者を引き留める事も責める事も出来ない。むしろ、自分から解放されてくれと望みさえするかもしれない。  孝則に出逢ったのは、そんな風に秋良が漠然とした不安を抱えていた時だった。  その男はすでに血の気を失い、青白く疲れ切ったその顔は、確実にこのまま楽になる事を望んでいた。どこかの武将という風情でも無く、戦場から逃れてきた一般兵だという身分は明らかで、だからこそ助けるのに躊躇も迷いもいらなかった。 (死なせてなど、やらない。その命、俺が貰う)  秋良自身が驚くほど、自分勝手な思いで孝則を拾った。  なのに、孝則は秋良を恨むどころかすべてを預けて愛してくれるようになった。なんて勝手な奴だと罵られる覚悟は出来ていたけれど、愛される覚悟は全く出来ていなかったから、最初は戸惑うしかなかった。  秋良の何が孝則に響いたのかは、よくわからない。けれどその示す愛情は隠そうとしているのだと言うことはわかるが、実際は少しも隠し切れておらず、秋良を慮ってあくまで主従関係を崩そうとしない、そのいじらしさが段々愛おしくなってきた。  気まぐれな拾いものだ。最初から、個人の能力に期待などしていなかった。ただ、何も考えず雛が親鳥に懐く様に傍に居てくれればよかった。  下手に頭が回ったり体力に自信があるような者は、きっと秋良に何もなくなった時どこかに去っていってしまうから。そしてそれこそが正しい道だと思うから。  なのに秋良の希望とはほぼ遠く、孝則は家臣の誰よりも参謀として役に立った。頭の回転は早く戦略にも長け、最前線から遙か遠くで指示だけを出す様な頭でっかちではなく、率先して先頭に立てる程の腕も持っていた。  もちろん出来る奴なのかもしれないと思ったからこそ、やらせてみたところはあるけれど。失敗しても秋良としては全く問題なかったのに。  結局、孝則が秋良の欲しかったずっと傍に侍り愛でるだけの飾りでいてくれたのは、怪我が治るまでの短い間でしかなかったのだ。  頭の良い孝則の事だ。秋良がどんな理由で自分を拾ったのかも、途中で気付いたはずだった。怒られ呆れられて離れて行っても仕方ない、そう覚悟していたのにその時は一向に訪れない。それどころか日を追うごとに、孝則からは秋良に対する愛情しか感じなくなっていく。  それが偽装なのだとしたら大したものだが、近付き過ぎず一定距離を保ったまま離れて行こうともしないその態度は粘り強く、季節が一巡しても尚変わる事は無かった。  だからもう、受け入れるしかないと思った。  秋良が孝則を拾ったあの瞬間。生まれて初めて我儘を通したあの時。捕らわれたのは、秋良の方だったのかもしれない。  手を離しても、鳥籠から出して自由に羽ばたく事が出来るようになっても、本人の意思で飛び立つ事をせず、ただそっと傍に居てくれるたった一人。  それが幻ではないと確かめる様に、優しいその人に秋良はそっと桜の上で口付ける。それは二人を主従関係から解き放つ、合図になった。 * 「おはようございます」  携帯の目覚ましアラームを止めて、微かに痛む頭を押さえながら起き上った秋良に、ごく自然な朝の挨拶が向けられる。 「おはよー……」  反射的に挨拶を返し、独り暮らしの部屋でその挨拶が交わされる事に違和感を感じて顔を上げると、味噌汁をテーブルの上に運んでくる孝則の姿が目に入った。  夢の中の孝則とのキスの感触はまだ鮮明で、びくりと思わず布団を握りしめ。そしてやっと昨日二人で飲んだ事を思い出した。  先に潰れてしまった自覚はあり、秋良がベッドに運ばれた感覚は曖昧だが残っている。とすると家主が寝落ちた後、孝則は帰るタイミングを逃してしまったのだろう。 「すみません。勝手に冷蔵庫開けさせていただきました」 「そんなのは全然。ってか、すげぇな」 「簡単なものしか出来ませんでしたが、二日酔いには優しいメニューになっているはずですよ」  テーブルに並べられた孝則が用意してくれた朝食は、ほかほかのご飯とみそ汁に卵焼きという、完璧な日本の朝食と言っていいものだった。ほとんど中身の入っていない冷蔵庫を前に、よく作ってくれたものだと感心する。みそ汁の具などあっただろうかと、持ち主である秋良でさえ首を傾げるほどだ。  食パンはあったはずだから、特におかずがなくてもトーストにするだけで済んで簡単だっただろうに、秋良が二日酔い気味になっていることまで考慮の上、和食にしてくれたらしい事に恐れ入るしかない。 「悪い。俺が先に潰れたから帰れなかったんだよな」 「いいえ、最初からそういうお話でしたから。私の話を真剣に聞いていただけて嬉しかったです」  その補完というか殿サイドの夢を今まさに見た、とはさすがに言えなかった。 「うん、まぁ……。いろいろ驚いた」 「すみません」 「いや、聞きたいと言ったのは俺だ。それに、お前がどれだけ殿様の事を大事に思ってるかはわかったつもりだから、想い出を否定したりはしないよ……ただ、それを俺に当てはめられると困るんだけど」  あくまで友人として付き合っていきたいと暗に告げてみると、孝則は少し寂そうな笑みを浮かべながらも「もちろんです」と頷いた。その答えで、眠りに落ちる前に一瞬感じた唇の感触と、夢の中で体験したそれが酷似していたのは、気のせいなのだろうと言う事が確定する。  もし本当は気のせいではないのだとしても、気のせいだということにしていい、そういう許可をわざと取った。どんどん重なっていく自分と殿との感情に蓋をするように。  孝則の用意してくれた朝食は、確かに二日酔い気味の身体には染み渡る様で、噛みしめるように食べ終える頃には、頭痛も随分と治まっていた。この調子だったら、今日一日問題なく過ごせるだろう。社長就任二日目にして、二日酔いでダウンなどという失態は晒さなくてよさそうだ。  自転車の二人乗りを勧めてみたが「駄目です」としっかり諭され、この日は昨日の帰りと同じように自転車を押しながら、早めに家を出て二人で歩いて通勤する事になった。  通りがかった桜の木の丘の傍で、孝則が遠くに見える桜を愛おしそうに目を眇めて眺める姿も、昨日と全く同じだ。  きっと孝則は、この桜を見るたびにこんな表情をしてきたのだろう。隣に秋良がいるにもかかわらずそんな顔をするという事は、秋良の存在が孝則にとっての殿の存在に、決して敵わない事を知らされると言う事でもあった。 (敵うとか、敵わないとか。俺は孝則にどう思われたいんだか……)  つい先ほど、友人という関係でいたいと示唆したのは自分の方なのに。殿を思い出して優しい顔をする孝則の態度が気に入らない。ただの我儘にしては独占欲が強すぎて、子供じゃないんだからと自分自身に呆れる様に、つい溜息が洩れてしまう。  この溜息を桜に夢中になっている孝則に気付かれていない事が、唯一の救いと言えばそうなのかもしれなかった。

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