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第拾話

 会社に着いた途端、秋良と孝則は上司と部下に関係を切り替えた。というより孝則の切り替えにつられたと言った方が正しいかもしれない。  孝則のオンオフの切り替えは、さすがとしか言いようがなかった。初日からその断片は垣間見えた気はするが、それは日を追うごとに賞賛に値するものへと変化を遂げていく事になる。  仕事の出来る男とは、こういう者の事を言うのだろうと認めざるを得なくて、そこまで割り切れない秋良は仕事の仕方は人それぞれでいろんな結果の残し方があるのだと悟るまでの間は、結構真剣に凹んだものだ。  それからしばらくは、何事もなく日々が過ぎて行った。  相変わらず夢が途切れる事は無いが、ほとんどは穏やかな一日や何気ない殿と孝則の会話だったりで、孝則と会ってから立て続けに見たような、衝撃的な映像が毎晩続く様な事はなかった。  たまにそういった甘い雰囲気になる時もあるが、殿との同調に慣れて来てしまったのか、元々の偏見のなさが幸いしたのか(もしかすると秋良にとっては災いかもしれなかったが)、過剰な反応をする事もなくなった。  ただそういう夢を見た時は、孝則と顔を合わせるのが若干気まずく感じるのに、いつの間にか目で追っていたり、ふとした瞬間に指が触れるだけでも驚いてしまう。それを過剰な反応ではないと言い聞かせているだけかもしれない。  だが秋良はそれもいつしか、仕方のない事だと諦めに似た認め方をするようになってしまう程には、なぁなぁと飲み込む様になった。それは秋良と殿が同一人物たる事実に、近づいて来ている証拠でもあったのかもしれない。 (夢を見た当日につい反応してしまうのは仕方ないよな。それは夢があまりにリアルだからであって、俺自身が孝則に対して同じように恋心を持っている訳じゃない)  今という現実を生きているのは「江藤秋良」なのだと言い聞かせて、夢と現実を切り離すのに努力が必要になって来たからだ。  せめて仕事だけはきちんとしようと打ち込んだ成果は、若いのに出来る社長という評価を得つつあり、背後にちらちらと見え隠れしていた父親の姿も最近は感じなくなっていた。  初日に孝則が言ってくれた様に、本当に父親の手は入っていなかったのかもしれないと信じられたのは、社員とも取引先とも良い関係を築く事が出来る様になってからの事だ。  そうなれた大半は孝則のサポートによるものが大きく、秋良が夢のことを気にしないようにすればするほど、頑張れば頑張るほど、優秀な部下との関わりは深くなっていくばかりだという事に気付く。  悶々と考えるよりも、一度離れてみた方がいいのではないかという考えもよぎるが、秘書としての孝則の能力は早々替えがきくものではなく、そんな優秀な部下を個人の感情だけで遠ざけるなど、それこそ公私混同極まりない。  結局の所、秋良自身が折り合いをつけるしかないのだ。孝則はとても優秀な部下であり、良き先輩でもあり、そして気の置けない友人でもあり、この関係の心地良さを手放したくない気持ちが大きい。  湧き上がる感情を努力して抑えている時点で、もう既に結論は出てる様なものだったたが、前に進む勇気は持てないでいた。という方が正しかったのかもしれない。  そうして過ごす日々はあっという間に過ぎ、季節は夏に差し掛かろうとしていた。  通勤途中に毎日目にしていた桜の木も、すでに葉桜となって緑が生い茂っていて、何となく記憶を揺さぶる様な感覚が少しずつ薄れて来ていた頃。  ようやく仕事にも慣れ、自分で計画的に時間を使う事も出来るようになって来た。  社長という立場とは言え、社内ではまだ一二を争う位の若輩者だ。ちょっとした息抜きの時間に、忙しそうな孝則や他の秘書達にわざわざお茶を頼むのは憚られ、自分で給湯室に顔を出す様になると自然と社員達と話す機会も増えた。  秋良が若いからというのに加えて、砕けた口調なのもあるのだろう。最初は多少戸惑っていものの、今では皆社長だからと遠巻きにすることなく気軽に話してくれる。特に、同じ年代の若い社員たちは物おじせず、仲間の様に接してくれるようになった。  どこの会社でも同じだが、女子社員は給湯室での噂話が好きらしい。そこから得られる社内の噂や仕事のちょっとした愚痴も、新人社長の秋良にとっては重要な情報源で、良く耳を傾けるようになっていた。  秋良が孝則の噂を聞いたのはそんな頃だ。 「社長、秘書室長の椎名さんに婚約者がいるって噂、本当かどうか知ってます?」 「えー、ショック。椎名さんかっこいいし仕事も出来るから、狙ってたのに」 「狙ってたのはあんただけじゃないから、安心しなさい。本当なら社内の女子の半分は失恋よ」 「そんな安心嫌だー」  一人の女子社員からの質問に、次々とその場に居た女性の声が重なる。そして最終的に、一番孝則と近いとされる秋良に視線が注がれていた。  その数々の瞳は真実を求めているのかそれとも違うのか、期待と不安が混じり合っているのはわかるが、正解がどれかは秋良には判別がつかない。女性と付き合った事がない訳ではないが、女性の噂話のノリはいつまで経っても不可解だ。  それに何より、その噂の真相について一番知りたいのは秋良本人だった。 「……そんな話は、聞いたことがないけど」 「ホントですかぁ?」 「でも、確かに最近椎名さんちょっと雰囲気変わったよね」 「うんうん、柔らかくなったっていうか」 「そう、なのか……?」 「えぇ。あ、ちょうど社長が来られた頃からかも。それまでは、格好いいけど近寄りがたい! って感じだったよね」 「最近、すごく幸せそうな顔してる時あるし。忙しいはずなのに、周りへの気配りの仕方にも余裕ありすぎる位のレベルだし」 「余裕があるっていうか、精神安定してますーって感じ」 「どうしてそれが、婚約者って話に繋がるんだ?」 「社長わかってなーい。そういう変化するって事は、好きな人が関係してるに決まってるじゃないですか」 「椎名さんは誘っても全然乗って来ない固いタイプですから、もうこれは本命が出来たとしか考えられませんよぉ」 「って、あんた何一人で勝手に誘ってるのよ」 「許可制なんて聞いてないもん。それに成功しなかったんだからいいでしょ。あたし的には全く良くないけどね!」  きゃあきゃあと盛り上がる女性陣に置いてけぼりにされつつ、秋良の感情はそれどころではなかった。気が気ではないというのは、こういう事を言うのだろうか。  孝則に結婚まで考えている彼女がいる、それを知っただけでざわつく感情を捉えかねる。  孝則だって結婚してもおかしくない年頃だ。そんな話が出てしかるべきで、祝福に値する事象である事は間違いない。なのに素直に「おめでとう、良かったな」と言えそうもない心情に戸惑う。  仕事以外のプライベートでも少なからず交流を重ねて来たはずなのに、ちっとも話してくれなかった事が気にかかっているのかと考え、それとも違う気がした。  一番近い気持ちとして「嫉妬」の二文字が浮かんだが、それこそあり得ない……はずだ。  もやもやとした感情をもて余しながら気もそぞろに女性達の会話を聞き流していたら、話題を切り出して来た女性が秋良の肩を叩いて片手を拝むように軽く挙げながら小首を傾げ、可愛くお願いのポーズを取る。 「社長、機会があったら探ってみて下さいね」 「約束ですよ!」 「ご報告、期待してまーす」  口々に秋良に情報提供を要求する女性社員達の輪の中から、なんとか曖昧に頷きながら自然に見える様に努力しながら抜け出して、秋良はふらふらと社長室へと戻る為に足を向けた。

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