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第拾壱話

「社長、如何なさいましたか?」 「…………へ?」 「この時間は、予定は特に入っていなかったはずですが」  社長室へ向かったはずだったのに、無意識のままに向かったのはその隣にある秘書室だったらしい。  幸か不幸か、他の秘書たちは席を外していたようで、秋良の出現に腰を上げたのは孝則だけだった。秋良の突然の出現に不審げにスケジュール帳をめくって、念のために内容を確認しながら孝則が首を傾げる。  そんな孝則の声で、やっと秋良は行き先を間違えた事に気付いた。あまりに孝則の事を考え過ぎていて、足が勝手にこちらへ向かったと言ってもいい。  噂話の第一声からずっと、自分の感情と行動があり得なさ過ぎて笑えてくる。一体秋良は孝則との関係を、どうしていきたいのだろう。 「悪い、間違えた」  これ幸いにと噂を確認する勇気はない。もし肯定されたら、どういう反応を示してしまうか今の自分には予想がつかないからだ。  かけるべき言葉の正解は、とっくにわかっている。素直に言えそうもないと感じた、その二言を告げればいいだけだ。明るく祝福してやればいいだけだ。  そしてその簡単な言葉がどうして出てこないのか、その感情を認めるのが怖くて、秋良は踵を返した。 「待って下さい!」 「…………っ」  そのまま歩きだして部屋を出ようとした秋良は、孝則に手首を掴まれて引き留められ、びくりと肩をすくめる。それは触れられたせいなのか、それとも今は触れて欲しくなかったからなのか、わからなかったけれど。確実に秋良の足は止まった。  そしてその過剰な反応に孝則が気がつかないはずがなく、引き留められても尚、振り向こうとしない秋良の顔を覗き見る様に、孝則の顔が秋良の正面に傾げられる。 「どうしました?」 「……なんでもない」 「何でもないと言う事は、ないでしょう」  そんな顔をして、と孝則が秋良の頬に手をあてようとするのを、先ほどより大きな反応で反射的に避けると、孝則が困った様に悲しそうな顔をするのが見えて罪悪感を感じる。  孝則は、ただ秋良を心配してくれているだけなのに。そんな孝則を自分の都合で傷付けた。 「本当に何でもないんだ。仕事邪魔して、悪かったな」 「秋良」 「なっ……」  仕事中には滅多に呼ばれる事のない名前をふいに呼ばれて、息を飲む。  その反応だけで、孝則は秋良の不自然な行動がプライベートな事だと察したらしい。握りしめたままだった手首を強引に引いて、孝則は秋良を秘書室から連れ出し、そしてそのまま隣にある社長室へ共に入ってガチャリとわかりやすく鍵を閉めた。 「ここなら、誰にも邪魔されませんから。どうしたんですか、秋良」  就業中だが、ここからしばらくはプレイベートだと言ってくれているんだろう。  そうやって社内では上司と部下でいようという、暗黙の内に決まっていたルールを破ってまで、いつも秋良を一番に心配してくれる孝則の優しさが今は辛い。そして何より噂を確かめる事で真実を知って、ここまで築いて来た関係が崩れるのが怖い。  だが、このまま黙ってやり過ごせる訳がない事もわかっていた。  孝則がこと秋良に対して、いや殿に対してと言うべきだろうか。どちらにしても心配性の度を超えた気の配り方をする事は、ここ数ヶ月で嫌と言うほど知っていたし、そんな孝則にずっと心配そうな顔をさせておけるほど、秋良は図太くもなかった。  聞いてしまっても、今まで通りの関係を続けていれば何の問題もない。ただきっと、この胸のもやもやが痛みに変わるだけだ。  それは秋良の勝手な想いで、孝則には何の罪もなくて。秋良自身が今の今まで避けてきた気持ちなのだから、孝則に気付かれるはずもない。  大きく息を吐いて心を落ちつけ、秋良はぽつりぽつりと言葉を零す。 「噂を、聞いて……お前の」 「私の、ですか? 一体どんな……」 「婚約者が、いるって」 「はい?」 「最近いつも幸せそうだから、きっと可愛い人で、結婚も近いらしい」  結婚とかそこまで話が進んでいたかどうかは微妙に自信がないが、秋良の中ではそういう事になっていた。  俯いたまま言葉を重ねる秋良の頭上で、孝則の大きな溜息が聞こえた気がした。そして突然孝則の手が秋良の顎に掛けられたかと思うと、いつもの孝則からは考えられない強引さで上を向かされる。  孝則の射抜く様な視線が秋良を突き刺した、と思った瞬間。秋良の唇は孝則のそれによって塞がれていた。  それはあまりにも突然で、いつもの孝則からは考えられない位に強引で、そして蕩ける様に優しい口付け。 「……っ、は」  解放されるまでの時間は一瞬だったのかもしれなかったが、混乱している秋良にとってその時間はあまりに長く、離れて行く余韻を追いかける様な吐息と共に孝則を見上げると、そこには困った様にけれど静かに怒っている事がわかる孝則の表情があった。 「秋良」 「……はい」  静かに呼ばれた名前に、思わず背筋を正してしまうのは、孝則の表情がとても真剣だったからだ。  自分が傷つく覚悟は出来ていたが、怒らせるとは思っていなかったし、どちらかというと照れたりデレたりするものだと思っていたから、この反応は予想外過ぎて戸惑いしか生まれてこない。  だから黙って孝則の次の言葉を待つ事しかできず、そのほんの数秒がものすごく長く感じられた。 「私には婚約者どころかお付き合いしている方などもいませんし、結婚もしません」 「そう、なのか?」 「最近私が幸せそうに見えるのなら、それは貴方の傍にいられるからです」 「……え?」 「私が愛しているのは、貴方だけですから」 「それ、って……」 「ずっと黙っているつもりでした。私はただ、傍にいられるだけで良かったから。でも止めにします、貴方がそんな顔をしてくれるのなら」 「お前が好きなのは、殿様だろ」 「殿の事は、お慕いしております。忘れる事はきっとできないし、貴方の中に殿の影を見るたびに思い出してしまうのは許して頂くしかないです。けれど今私の傍にいて笑ってくれるのは殿ではなく、秋良ですから」 「だって、そんなの……聞いてない」 「勝手に好きでいさせて下さい。そう告げようと思った事は何度もありました。でも、それでは私が秋良を殿だと思っている事の延長線上にしか感じてもらえない、そう思ったから言うのは止めたんです」  勝手に殿だと思う事を許して欲しいと言われた時に、ほんの少し気にかかっていた事が、今度はやけに何かが引っ掛かった。  孝則はいつも一方的で、見返りを求めない。秋良なら受け入れて欲しいし愛し返して欲しい、きっとそう思う。  それは我儘なんかじゃなくて、当然の感情だと知っているし、誰もが抱く感情だ。受け入れて貰えるかどうかは最終的には相手次第だが、湧き出る感情は自分だけのものだから、大切にしてもいいはずのものだ。  なのに、孝則はその自分の感情の行き場さえも、相手を優先するばかりに押し込めてしまっていた。いや無理矢理押し込めさせたのは……きっと秋良自身だった。  孝則に婚約者がいると聞き、何故こんなにも心に引っかかったのか。殿ではなく秋良の事を好きだと、秋良の為に押し込めていた気持ちを無理矢理引き出して、やっと理解した。  きっと今までも数え切れないくらい沢山、孝則に辛い気持ちを抱かせていたのかもしれない。秋良は、殿の代わりとして孝則に触れられることが、嫌だったのだ。 「勝手に好きでいさせてもらうだけで、本当に十分だったのですが……欲が出ました。秋良は、私の事が嫌いですか?」 「嫌い、じゃない。でも……」 (わからない)  そう続けかけて、言葉が止まる。  本当にわからない? 孝則に婚約者がいると聞いただけで、こんなにも動揺した自分の気持ちは正直なものだと言わざるを得ない事はわかりきっているのに。  自分勝手な独占欲、それを恋と呼ぶのなら。ずっと否定してきたけれど、秋良のこの気持ちはそれと呼べるのかもしれない。  孝則が秋良ではなく、殿を見ている事はわかっていた。最初はそれでいいと思っていた。秋良は孝則を友人として好きなのだと思っていたから、その心に居るのが自分ではなくても構わない、と。  だけどいつしかその場所にも今の自分が居て欲しい、そう思うようになった時、気付くべきだったのだ。  最初は殿との同調だったかもしれない。見る夢がリアル過ぎて、それに感化されたのも否定できない。けれど今の孝則を見て来たのは今の秋良であり、立場としては部下ではあるが尊敬できる人生の先輩でもあり、追いつきたい隣に並べる男になりたいと思える人だと信頼してきたのは、誰でもない秋良自身だ。  その人が、遠い時の向こうに居る恋人である殿ではなく、秋良を愛していると言う。その言葉は、確かに秋良を優しく包み込んだのだから。 「では、私にこうされる事は嫌ですか?」  孝則が秋良を抱き締めた。秋良が苦しくない程度に、けれど振りほどく事は出来ない位にぎゅっと。  簡単には離さないとでも言う様な温かさがそこにある。孝則に包み込まれて、秋良はその場所の居心地の良さを実感した。この場所を他の誰にも取られたくない。 「多分、心地いい。安心する」 「そうやって、突然殺し文句を言うのは止めて下さい」 「そんなつもりじゃ……」 「わかっています。ですがもう少しだけ、夢を見せていて下さい」  孝則はどうやら、秋良が噂に動揺しているだけだと理解したらしい。耳元で囁かれる祈りの様な呟きに、この瞬間だけで十分だと思っている気持ちが伝わって来る。  それは勝手に好きでいさせて下さいと告げられるのと、何が違うのだろう。孝則は最初から秋良との恋が叶うとは思っていないのだ。  その原因の大半は、秋良のせいだと言う事はわかっている。何となく孝則が友人以上の想いを抱いている事を感じていたのに、殿の存在があるが故に素直に受け取る事が出来ず、むしろそれを盾に友人でいようと言い続けていたのは秋良の方で、男同士の恋愛は自由だと言いながら自分に当てはめてみようとは思わなかったのも秋良だ。  おずおずと孝則の背中に両手を回す。抱きしめ返して、その温もりが他人のものではない事を確かめる。 「悪いが、俺は夢じゃ嫌だ」 「え?」 「今夜、空いてるか?」 「はい」  そう言えば、孝則を誘って断られた事がない事を今更ながらに思い出す。婚約者という関係の女性がいるのならば、予定がいつも空いているはずがない。上司からの誘いとはいえ、何回かに一度は渋る様子を見せてもおかしくなかったのだ。  それは、秋良の事を一番に考えてくれていた証拠であり、それ以上に大切な人がいない事を暗に示していたのに、そんなことにも気付かなかった。  冷静に考えれば、動揺するより先にわかる事は沢山あったのに。仕事中の孝則を邪魔をしてしまう位、我を失った恥ずかしさが急激に湧きあがって来た。  恥ずかしさついでに秋良は言うところまで言ってしまおうと、変な所で男らしい決断を下した。 「家、来ないか?」 「……この状況でその台詞は、ちょっと不用心です」 「そういう意味で言ってるから、大丈夫だ」 「……本気にしますよ?」 「構わない。来るのか、来ないのか?」 「もちろん、お断りする理由が私にはありません」  吐き出す様なその答えを聞いて、秋良が背中から手を引くと孝則も抱きしめていた腕を解いた。  密着していた身体の温もりが離れる事で冷めると同時に、勢いに任せて湧いていたとしか表現のしようがない頭も冷静さを取り戻したようで、秋良はまともに孝則の顔を見る事が出来なかった。  今更ながらに、孝則に触れられた唇の感触がやけにリアルに思いだされて、秋良は逃げる様に後ろを向いた。 「仕事、邪魔して悪かったな。もう戻っていいぞ」 「はい。では、失礼いたします」  背後で聞こえた退出の声は、仕事モードに切り替わっていて。軽く頭を下げる気配と、その後まもなく掛けられた鍵を外してドアが開く音が続いた。  部屋の中から自分以外の気配が完全になくなり、数十秒の時を刻んだ頃。秋良は力を失った様に、へなへなとその場に崩れ落ちた。  自分の気持ちを自覚するのと、相手の気持ちを知るのが同時に訪れて、失恋と両思いを同時に味わう事になり、心も身体もオーバーヒート気味だったのだろう。だが後悔はしてる訳ではないから、結果オーライと言っていいのかもしれない。  残念ながら、明日から挽回すると言い聞かせて身の入らない業務を心おきなく投げ出してしまったので、終業の時間まで今日の秋良の業務進行状況は、滞りなくと言えるものではなくなってしまったけれど。

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